1991カタストロフ ( No.2 )
日時: 2009/01/12 21:50
名前: かに

「1991カタストロフ」


「おまえとはもう遊ばない」
 ゲンちゃんと疎遠になったのはこの一言がきっかけだった。ずっと仲良しだったのに突然絶交を持ちかけられた。
 どうして、と理由を尋ねた。幼いころからゲンちゃんとわたしは一緒にいた。お兄ちゃんたちも一緒にいた。郊外の住宅地は、小さな体が冒険するにはじゅうぶんすぎる大きさで、追いかけっこしたりドッジボールをしたり川面でザリガニを捕っていたり、暇さえあれば集まって毎日何かをしていたんだ。
 けれどわたしが小学校に上がったとたん、お兄ちゃんとは外で遊ばなくなってしまった。ゲンちゃんのお兄さんでお兄ちゃんと仲のよかったユウちゃんも、ほとんど会わなくなっていた。たまに互いの家を訪れみんなでファミコンをするくらい。わたしとゲンちゃんは同学年で、学校から帰ったあとに近所の親しい友達を誘ってどこかに出かけていたりした。小学校四年までは少しずつ仲間の顔ぶれを変えて、それでもわたしはゲンちゃんとずっと一緒にいたんだ。楽しかった。それが急にそっけなく拒絶を宣言されて頭の中が真っ白になった。
「どうして? ゲンちゃんがいないとつまんないよ」
「その、「ゲンちゃん」って呼び方やめてくんない? おれのことは「三沢木」だ。もうガキじゃねえんだから」
 言いつけられた。それだとユウちゃんも「三沢木」になってどっちがどっちか混乱するよ。変だよ、って言いたかった。でも声には出せなかった。ゲンちゃんが怖い顔をするから。
「おれたちはもう小四だ。おまえといると恥ずかしいから近づくな。じゃあな」
 ゲンちゃんは踵を返して公園を出てまっすぐ帰った。わたしはゲンちゃんのあとを追うけど振り向いてくれず、ゲンちゃんの背中は「三沢木」の表札の家に入った。玄関前で足を留めて立ちすくむ。涙が出た。大声で一言。
「ゲンちゃんの馬鹿!」
 泣いて自分の家に帰った。

 数日後の学校で、マキちゃんから変なことを訊かされた。国語の授業が終わったあとの少し長い中休み。
「ミユっちは三沢木のことが好きなの?」
「え?」
 どういう意味だろう。好きというのは結婚したいってことなのかな。ゲンちゃんと結婚。しっくりこない。将来のことはわからない。けれど幼かったわたしはこの人のお嫁になるのかなあと無意識に思っていたかもしれない。でも、わたしとはもう一緒にいない。わたしの一部をべりりとはがしてゴミ箱へと捨てたんだ。
 答えることができなかった。するとマキちゃんは話題を変えて「男」について熱く語った。先輩の誰がかっこいいとか、うちのクラスはレベルが低いとか、誰が優しくていい感じとか、わたしにはよくわからない。適当に頷いて聞き流しているだけだった。そのときわたしの前の席で、大石くんが西野くんとファミコンのゲームの話をしていた。
「くにおくんの時代劇やった? おれ、「やまだのじゅつ」がすげえ好き」
「強いのはやっぱ「すくりゅうU」だろ」
 いやいやわたしは「じぶんぎょらい」をプッシュする。使い勝手は「すくりゅうU」のほうがいいけど、大運動会を知っているわたしは寝ながら相手を蹴散らしていくあの技に惚れてしまっている。話がしたくてしょうがない。わたしもファミコンは好きなのだ。特にくにおくんシリーズは、我が家のパーティゲームの代表であってお兄ちゃんや近所の子たちとよく遊んでいたものだ。その中で盛り上がったのは一年前に発売された「それゆけ大運動会」だ。クロスカントリーや障害物競争などで順位を競うゲームだけど、殴る蹴る叩く投げるで相手を妨害できるために競技そっちのけで倒すことに夢中だった。そして戦いがメインである「かちぬきかくとう(勝ち抜き格闘)」という競技では、必殺技を使いまくって大いに乱闘しまくった。くにおくんは面白かった。近年ではスーパーファミコンが発売されてファイナルファンタジーWが話題作となっているけど、わたしはなぜかRPGをあまりやらず、お兄ちゃんがプレイするのを隣に座って眺めている。それでもストーリーを読んでいるので共通の話題はできている。パロムとポロムが石になった場面では兄妹二人で「きんのはり!」「きんのはり!」って騒ぎまくって何度も元に戻そうとした。主人公セシルを助けるために幼い双子は自ら犠牲になったのだ。やりきれなさをお兄ちゃんと共感した。こうしているのも好きだった。外で遊ばなくなったとしても、お兄ちゃんとはやはりゲームで繋がっていた。
 大石くんとはあまり喋ったことはない。くにおくんで盛り上がっているのを聞いて輪の中に入りたくなった。楽しそうな横顔だ。
「ミユっち、ひょっとして大石に惚れたの?」
 マキちゃんの声で我に返った。びっくりして目をぱちくりさせる。なんでそういう話になるの。
「ち、違うよ!」
「大石のことじっと見てたじゃん。熱い視線送ってさ」
「違うってば!」
 泣きたくなった。好きなゲームの話がしたいだけなのに、マキちゃんは何かと男を話題にしたがっている。クラスの女の子はみんなそうだ。男の子に別の意識を向けている。恋できゃあきゃあ騒いでいる。りぼんやマーガレットを読んでいる。少女漫画は乙女たちに恋を恋焦がさせている。わたしはそんなものよりもバトルをしている少年漫画のほうが好きだ。ドラゴンボールは毎週水曜欠かさずアニメをチェックする。戦いってかっこいい。わたしはそんな少女である。
 大石くんが突然こちらに振り向いた。目が合った。何か言いたげに口を開けたが、わたしはすかさずマキちゃんを見て「トイレ行ってくる!」と言って教室の外へ駆け出した。あんなに話たがっていたのに、からかわれるのがすごく嫌で席を立ってしまっていた。悲しかった。友達になれたかもしれないのに、わたしはもう昔のままで男子と会話ができなかった。ゲンちゃんみたいに仲の良かった男の子たちはいつの間にか遠くなった。
 小学四年生。十歳。年齢はもう二桁になった。大人への階段を一段足に掛けるころ。
 家に帰ってお風呂に入ると自分の体が気持ち悪い。胸を撫でるとほんの少し柔らかみを手に感じる。これがおっぱいになるのかな。ママやテレビのおねえさんみたいに丸く膨らんでいくのかな。わたしは女になるのかな。
 変わっていく。わたしの体や、友達みんな。心だけが幼いままで取り残されてしまっている。変わりたくなんかない。消え入りそうな輝きを決して手放したくはない。あの日の時間が好きだった。男も女も関係なくて子供として遊べる時間が。
 お風呂。一人で入るようになったのは去年の誕生日からだったか。それまではパパやママと入っていた。もっと前はお兄ちゃんとも入っていた。外で一緒に遊ぶことがなくなってからは裸を見せなくなっていた。お兄ちゃんはわたしよりも一歩先を上っていた。
 ゲームをやった。くにおくんをお兄ちゃんと二人プレイ。今日は時代劇ではなくて大運動会のほうだった。これまたバランスの悪いゲームで「れいほうチーム」が一番強く、兄妹の暗黙ルールで使うのを禁止にさせている。わたしは「ねっけつチーム」、お兄ちゃんは「れんごうチーム」を選択した。負けない。
「競技どれにする?」
 変声期を迎えたお兄ちゃんの低いダミ声。まるで違う人のよう。張りのある高い声はどこへいってしまったのか。それでもわたしのお兄ちゃんであることには変わりない。今日もこうしてゲームで構ってくれている。夕食後のささやかな楽しみ。
「クロスカントリーを一回、格闘は三回勝負!」
「了解」
 結果は散々だった。クロスカントリーではNPCの「れいほうチーム」が一位を取った。「もちづき」というキャラがいて、こいつがめちゃくちゃ足が速い。妨害するにも追いつけずに取り逃す形となってしまった。仕方がないので憂さ晴らしにもう一つのNPCの「はなぞのチーム」をボコボコにした。タイヤを担いで下水道で「よしの」を殴る。お兄ちゃんの「れんごうチーム」は暴力から上手く抜けて「もちづき」に続いてチェックインした。
「お前、殴るの好きだな」
「うん」
 このころのわたしは、まさか一年後に対戦格闘ゲーム、ストリートファイターUに熱中するとは夢にも思わなかっただろう。拳を交えた熱き戦い。くにおくんシリーズが好きなのは、相手との勝負を実感できることにある。喧嘩がこの世界では正々堂々の格闘だ。
 クロスカントリーの順位は負けた。二位はお兄ちゃん、三位はわたし。ゴール時にお兄ちゃんが操作していた「ごだい」が木刀を持っていた。体力が回復してきたころに勝ち抜き格闘で出すのだろう。「ごだい」の必殺技「棒術スペシャル」は強力で、一度ハマると立て直すのが難しい。木刀を持たせてゴールをさせてはいけなかったと悔しがる。
 お兄ちゃんは強かった。勝ち抜き格闘一回戦、「くまだ」の「人間魚雷」にやられた。わたしの「すがた」がメリケンサックで後頭部に直撃を受け、倒れたところを「くまだ」が担いで場外へと流しこんだ。「人間魚雷」は投げた人間を滑るように床を走らせ、壁に当たるか段差を下りるか画面端に辿り着くまで進ませるという驚異の技だ。投げられた人間は、その間操作を受けつけない。だから「すがた」はあっという間に床を滑って場外負け。四位。姿が見えなくなってしまった。「くまだ」は同じような手順で残り二体のNPCを場外へと送りこむ。一位。
「ずるいよ」
「これも勝負だろう?」
 鼻で笑うお兄ちゃん。次はボッコボコにしてやる。「ねっけつチーム」、次は「ななせ」。お兄ちゃんは「れんごうチーム」のキャプテン「ごうだ」。
 勝ち抜き格闘二回戦。落ちているアイテムに小さなピンクの粒を発見。格闘の指輪。これさえ拾えば必殺技を誰もが使えるようになる。「人間魚雷アタック」という、自分で操作できる魚雷。「くまだ」は他人を魚雷にするが、こちらは自分が魚雷になって体当たりの攻撃をする。しかもボタンに反応するので技を解除するのも可能だ。魚雷になっている間はほぼ無敵といっていい。これが後の時代劇の「じぶんぎょらい(自分魚雷)」の発祥となる。わたしの好きな技である。
 立ち上がりに格闘の指輪を真っ先に拾っていこうと向かうがNPCに奪われる。しかし馬鹿なNPCは使いこなすことをしない。「ななせ」が「さおとめ」に近づくと、「ごうだ」の「頭突き」が背後からわたしの邪魔をした。吹っ飛んだ。壁に当たって跳ね返った。
「ちくしょー!」
 「ごうだ」は「さおとめ」にも頭突きを食らわし、格闘の指輪を拾い上げる。「ごうだ」が下へ移動する。捨てるつもりだ。捨てさせるもんか。
「ダブルちょーっぷ!」
 叫ぶと同時に「ななせ」が跳ぶ。ABボタンを押してA。打ち下ろされた両の手刀は見事空振りスカされた。格闘の指輪は横に投げられ場外の彼方に消えていった。あとは素手でのガチンコ勝負。不覚にも「ななせ」は「ごうだ」の「頭突き」で吹っ飛ばされて、NPC「りゅうじ」を巻きこんで三位。またしても場外負けとなる。
「今度は勝つ!」
「やれるものならやってみな」
 最後の勝負。お兄ちゃんはやはり「ごだい」を使ってきた。木刀つき。こっちは「くにお」で対抗する。がんばれ主役。
 「ごだい」はさっそく「棒術スペシャル」で回りはじめた。くるくるくるくる。巻きこまれた「こばやし」は木刀に当たって倒れていく。「ごだい」は起き上がり様を狙って「こばやし」をまた倒していく。地獄の連鎖。こうなっては動けない。「こばやし」は体力が尽きていくまで決して逃れられないだろう。わたしの「くにお」は離れている。鉄アレイの武器を持って「ごだい」を倒す作戦を頭に組み立てていく。背後から「りき」が寄ってくる。邪魔だ、鉄アレイを顔面に投げて「マッハきっく」を叩きこむ。蹴蹴蹴、蹴蹴蹴。駄目だ、「りき」に構っていたら「ごだい」に勝てない。こいつはあの棒術地獄に巻きこませることにしよう。「くにお」は「りき」を担ぎ上げて「ごだい」の元に放りこんだ。設定上の悪友なんてここでは構いやしないのだ。卑怯乱闘万々歳。
 「こばやし」が力尽きて四位になった。「りき」は拷問を受けている。「くにお」は鉄アレイを再び拾い、「ごだい」へ投げて走り出した。鉄アレイは直撃し、「ごだい」は倒れて隙ができる。木刀を床に落としていく。勢いのついた「くにお」の体は「マッハきっく」で追い討ちをかけて、すかさず倒れた「ごだい」を担ぐ。Bボタンで遠くに投げる。これで距離は取れたはずだ。あとは木刀を場外へと捨てればいい。木刀のない「ごだい」なんてただの「ごだい」、素手では「くにお」のほうが有利だ。
 そこへ「りき」が起き上がって木刀を拾いやがった。ちょっと待て「りき」、その木刀は危険なんだ、さっさと捨てろ、「ごだい」に持たせちゃいけないんだ。あろうことか「りき」は木刀を持ったままに「ごだい」のほうへ近づいていった。この馬鹿。脳なしNPC。足元の鉄アレイを拾って「りき」の背中へ投げつける。「りき」はちょうど体力が尽きて昇天した。木刀は当然床に落ちる。あ、しまった。
 「ごだい」は木刀を拾い上げた。鉄アレイを使わせずに足元についてマークしている。武器は他に落ちていない。近づけば殺される。ならば待機し誘い出そうか。
「こっち来ーい」
「しゃあないな。挑発に乗ってやるよ」
 「ごだい」がダッシュを仕掛けてきた。「くにお」は「マッハきっく」を出して「ごだい」を倒そうと賭けに出る。
 判定に負けた。木刀のほうが長かった。すれ違いざま勢いのついた「棒術スペシャル」が横になびく。「くにお」は胴を払われ飛んだ。そこからはもう地獄車。くるくるくるくる。
「完敗だ」
 さすがお兄ちゃんだった。わたしよりも二年長く生きているだけのことはある。ゲームが上手くなりたいな。今度対戦するときは絶対勝ってやるんだから。

 部屋に戻って勉強する。遊ぶ時間も学ぶ時間も家ではきっちり決められている。ゲームは一時間、勉強は最低一時間。塾には通っていないから、わたしは自習で学力を上げていかなくちゃならない。宿題は算数があったのでまずはそちらに手をつけた。頭をぬんぬん悩ませていると水が欲しくなってきた。手を休ませて一階へと降りていく。リビングルームにママがいた。テレビをつけてドラマを見ている。チャゲ&アスカの「SAY YES」が流れ浅野温子がウェディングドレスをはためかせながら走っている。武田鉄矢と向かい合って泣きそうな顔で話している。ムードがいかにも最終回で、ママはティッシュを手に取りながらじっと画面に見入っていた。パパの帰りは遅いから、ママはこうして待っている。バブルが弾けてパパの仕事は大変だ。純愛ドラマにわたしは興味がなかったので、ママの邪魔をしないように台所の床を踏む。
 蛇口に手をかけようとすると、「ミネラルウォーターを飲みなさい」とママの鼻声が聞こえてきた。ドラマに夢中になっていてもわたしはしっかり見張られている。水道水はもう飲めなくなっている時代だ。昔は普通に蛇口の水をコップ一杯に注いでいたのに今は水を買わなければいけなくなった。冷蔵庫を開けて二リットルのペットボトルを手に掴む。蓋を開けてコップに注いで渇いた喉を潤した。
 ママは涙を拭いていた。武田鉄矢と浅野温子が抱きあってドラマが終わる。教会の鐘をエフェクトにハッピーエンドで二人は結ばれたようだった。男と女。成長したらこんなドラマをわたしなんかがするのだろうか。女が恋愛を好むのはどうしてだろうとわたしは思う。ママにドラマの何がいいのか聞いてみたくもなってきた。
「ママ」
「お母さんと言いなさい」
 ゲンちゃんみたいなことを言う。わたしが大人になりかけているから、わたしを大人にさせようとする。望んでなんかいないのに。
「わたしは子供のままでいいもん。恋も男も糞喰らえだ! ドラマがわかんなくってもいい!」
「美弓」
「ミッちゃんって呼んでよ。なんで変わらなきゃいけないの。今のままじゃなんで駄目なの」
 大人になっていくことで大切なものを失くしていくんだ。いつからだろう、アスファルトにチョークの線を描かなくなってしまったのは。○を描いてケン、ケン、パ。陣地を描いてドッジボール。男も女も関係なくてわたしたちは風の子だった。成長と共にお兄ちゃんとは外で遊ばなくなったけれど、代わりにファミコンで遊んでくれた。時代は移り変わっていく。ファミコンみたいに受け入れていけば変化に馴染んでいくのかな。わたしは女で大人になるのを当たり前に感じるようになるのかな。
 男に恋して結婚して子供を産む。気の遠くなる話だけどいずれはそうなることになる。今はまだ気持ち悪い。今はまだ。
 ママは傷心に気づいたのか、困った顔してわたしを抱いた。柔らかい胸がおでこに当たった。
「そうね、急に変えようとするのが無理ね。でも、美弓ももう十歳よ。いつまでも子供のままでいたら、恥ずかしい思いをしてしまうわ」
「なんで?」
「大人はプライドが高いからよ。女としてのプライドを美弓に持って欲しいのよ」
 自尊心。自分自身を護るために大人になっていかなきゃならない。周囲は意図して意図せずか無防備の心を汚していく。矛盾だよ。あの日の輝きを護るために大人になっていくなんて。
 わたしはまだ迷っている。ママの胸に埋めて泣いて目を腫らしておやすみした。

 保健体育の授業では思春期の体の変化について生々しく説明された。男子も女子も騒ぎまくって興奮した。うるさいな。
「ミユっちはショチョウまだかしらねー?」
「え?」
 隣でミホちゃんが囁いた。保健の教科書でいろいろな単語が出ているけれど、わたしにとっては単語としての認識しかない。テストで出るので覚える単語。反対側からマキちゃんが釣り目を三日月にして微笑んだ。
「この子にはまだ早いわよー。ミユっち何にも知らなそうだし」
 二人はくすくす申し合わせたように笑った。わたしは何のことかわからず二人を交互に見るだけだった。
 わたしの綺麗な一部分にひびが入って欠けていく。そうか、こういうことなんだ。得も知れない失望を抱いて前へ進むのを決心する。今のままではわたしは「大人」に傷つけられて壊れていく。だから大人になることで大切な思いを護らなければはいけないのだ。
 あの日にはもう戻れない。けれど思いは中にある。心の奥に大事にしまっていつしか子供に伝えたい。それが大人になることなんだ。
 変わっていく。人間も世界も歳を取る。
 一九九一年十二月二十五日。ソビエト連邦が解体した。わたしとママとお兄ちゃんは昨日の残りのオードブルを箸で摘んでテレビを見ていた。大統領を辞任するゴルバチョフの白い顔が映っていた。
「ソ連なくなっちゃったの? あの大きい土地はどうなるわけ?」
「ほとんどはロシアの領土になるよ。西のほうがいくつかの国に分かれるんだ」
 わたしはあまり政治や社会に詳しくなかった。だけどソ連は子供心に羨ましいと思っていた。だってあんなに広い土地を持っている。それがどうして日本の北と揉めているのか不思議だった。日本は狭い国だから返しちゃえばいいのにとも思っていた。世界は複雑なんだなあ。
 歯磨きが終わったあとにお兄ちゃんの部屋に乗りこみいつものようにゲームをした。カセットは久しぶりに「熱血高校ドッジボール部」。これもくにおくんシリーズの一つでおなじみの喧嘩スポーツだ。相手の内野にボールをぶつけて全員殺せば勝ちである。
 電源をつけてタイトル画面。そしてチームの選択画面。このとき「それん」という国が入っていたので驚いた。わたしは「それん」を選ばなかった。

 一九九二年。冬を越して小学五年生になった。クラス替えして面子が変わる。マキちゃんやミホちゃんやゲンちゃんとは別になった。けれど大石くんとは一緒だった。話し損ねたあの日以来、わたしはなぜか大石くんを目で追うようになっていた。無意識が意識に変わったのは大石くんがわたしに話しかけたとき。
「高松も同じクラスかー。よろしくな」
 そのときの笑顔が忘れられない。顔が熱くて心臓がバクバク鳴ったんだ。
 女になったその日が来たのはそれから一ヶ月後のこと。
 お腹が痛くてトイレに行ったらパンツに黒い染みを見た。恥ずかしさに悶えると同時に喜ばしさにくすぐったかった。
 お母さんに報告したらお赤飯を炊いてくれた。


(了)