ジムノベティの眠り ( No.7 )
日時: 2008/12/15 23:58
名前: Raise

 えらく丁寧に手入れされた爪とか、指先の平たさ、そして何より常日頃から聞こえてくる、ピアノのエチュードが証拠だった。調律師とかピアニストとか、とにかくピアノに関係した職に就いているというのだけは明らかだった。男は隣室の女が物憂げにジムノペディなど弾いている様を聞いていて、久方ぶりの音楽に、心を打たれていた。それで仕事から帰ってきては隣室のピアノに耳を澄ますのがささやかな慣習になった。
 その日は、ポークビーンズの小皿を左手に、銀食器のフォークは右手に、左耳が壁、ラ・カンパネラ。男は、ポークビーンズをお行儀よく食べ、皿も丁寧に洗い、残りの時間すべてを、気まぐれな演奏の拝聴に捧げる。恋でもしているんだろうか、この歳で、と男はグリーグの叙情小品を聞きながら、かつての病室の情景を思う。
 母が書き下ろした楽譜は、押し入れの中に押し込んである。母が狭い部屋に幸せそうに憩う様を何ともなしに思い起こしながら、男はプレストの目立つ楽譜の束を取り出す。これを弾かしてみたい、と男は考える。サティもいいが、母のも一度やってもらいたい、と思う。女はサティのジムノベティをひどく好いているようで、ほぼ毎日のように弾いているのだった。
 ジムノベディの聞こえる七号室への旅程は、あまりに遠く思われた。男が六号室の扉を開くと、オレンジの月が見えて、男は立ち尽くす。男は楽譜を握りしめているが、しばらくしてから諦めて部屋に戻る。

 男は、その日、嘘を吐いて仕事を休む。七号室の女は、いない。それでも、男は昼餉にミートローフをこしらえて食う。なんとなく、男は六号室の領地が食い尽くされ始めているのを思う。はじめはその違和感の原因がわからない。しかし、押し入れを開いてみると、一目瞭然。押し入れには母の作品集だけでなく、かわいらしい、ひよこの形をした暗黒がある。男はそこに手をいれて、尻の穴に手を入れたみたいだ、と思う。ものすごく汚らしいものに触った、すると胃の中のミートローフも全部もどしてしまってやりたくなる。男は、しかしそんな反応を抑えて、ひよこの暗黒をじっと見やる。その中に双眼鏡を突っ込んで除いてみると、あまたの星の姿が見える。宇宙だ、と男は感じる。この部屋の中に、宇宙が生まれた。動かしていくと、木星の艶めかしさとか、火星の寄る辺無さなど。男は、食事を続ける。宇宙のそばは、なめらかに時間が運行している。ジムノペディの聞こえない六号室は、少し狭くなる。その日は、女は帰らなかった。あの歳なのだから、どこか寄るところなんていくらでもあるのだろう、と男は宇宙の呼吸に耳を澄ませながら思う。

 男は、次の日に職場へ向かうのだが、七号室の女で出くわす。七号室の女は芳紀も二十、エレベーターで八階を下るのに、途中乗車は無く、運行はきわめてスムーズであるけれども、男は女に声をかけたくてたまらないし、せめてその姿を全部見ることだけでも叶わせたい。しかし残念なことに、男が面識のそう無い人間に声をかけることなんてどだい無理な相談なのだ。女がミントグリーンのセーター格好だったのも躊躇われる理由のひとつだった。チョイスに理由はないが。とにかくそんな諸々のために、男は女と話す機会を失った。その日は女が帰ってきて、サティの官僚的なソナチネなどひとつやってみせる、ドビュッシーだってお手のものだ。美しい女ではなかったようだ、と男は朝の後ろ姿に考える。壁。壁がすこし、厚みを増しているのに、男は気付く。男は、ノクターンを伝わせるレモンイエローの壁を、叩こうか、迷う。しかし、男はそうしない。女が不信に思うから、ではない。もしそのとき壁を叩いて、男の肉体がレモンイエローの向う側に没落してしまうようなことがあればどうすればよいのか、男には到底考えつかなかったのだ。男はカナッペに大変な時間をかける。それだけ食べる。食べながら聞く音楽は、消化のリズムを魔法のように変えてしまう、と男は思う。ちょうどその時はリストを弾いていたから、男は食べた気がしなくなる。押し入れを開く。宇宙は、拡大している。

 事態を据え置きするのが、すべてを受け流す最善の策なのだと、男は事務処理の合間に思う。流れる。流される。それでいいのだと、男は考える。ホッチキスと書類の往復運動に、ヴェクサシオンなど鼻歌でやりつつも、従事する。人気から隔絶された事務室の片隅で、男はまたひとつ、宇宙が片隅で埋まっているのを見る。猫の形をした宇宙が、時間を失ったままで、書棚に縮こまっているのを見て、男は安堵する。大丈夫、まだ何も始まっていない。
 男は宇宙のかたちをした動物たちを見る人を、知っていると思った。その日は手紙が来た。どうしてこんなものを平気で送れるんだろう、と思う。そんな場所でしか憩えぬ母の身を気の毒に思う。母からの手紙には、暗黒の動物たちが潜んでいる。その日の七号室は動物の謝肉祭で、男は水族館で死にたい、と思う。父から電話を受け取って、男は現状の生活がいかに幸福か、を話す。にぎやかな水の牢獄を思う。夕餉を作る気はしなかった。壁がまたすこし、部屋を狭めている。押し入れのひよこの形をした宇宙が、いつか鶏にでもなって、無数の卵を産んでくれたらいい、と思う。その情景を思うと、男は少しは救われた気持ちになる。

 その日の朝、男は再び七号室の女と出会う。七号室の女は桜色のマニキュアなどやり、ガラスのピアスをしているのまでは見えるのだが、顔を覗く気にはなれない。それでいいのだ、と男は思う。次々とマンションの人々が乗り込んでくる。男は俯いて、早くエレベーターが降りてくれればいい、とそのことばかりを考えている。その日は事務室にひとり、見知らぬ女が入ってくる。女は見栄えのしない格好に常日頃からの物思いで、仕事に手を付ける気にもならないらしく、到底役に立ちそうにもなかった。男は、それがいい、と思う。それで、働く。彼女がもうまもなく退職させられるだろう、という話を小耳に挟む。彼女は、男絡みで何か大変な目にあったらしく、どうやら心をやられてしまったらしい、と聞く。男は事務室で、女の眼の底に、ネズミの形をした宇宙がざわめいているのを、見る。

 月になりたい。夜道を歩くと、男はよく考える。月の上に背負われるのではなく、宇宙を、泳いでいたい、動けぬまま、聞こえぬまま、食せぬままで。今、重力が失われたら、とか、浮遊するビルディングとか、そういう夢想をする。マンションを見上げて、一体何人が、この建物に住んでいるのだろう、と思う。男は犬のかたちをした宇宙の、駐車場に突っ伏す姿を見る。エレベーターでは、顔を知らない人が入ってきて、男はとても、身の狭い思いをすることとなる。七号室からは、ジムノベティが聞こえてきて、六号室のドアを開こうとすると、壁の圧迫のせいか、なかなか開かない。男は溜息を付くが、少し力を入れると、扉はあっさりと開く。六号室は七号室からの宇宙に、大変に圧迫されていた。それでも男はマンションの一室は、独り身の男にはずいぶんと広い、という点が苦痛だったから、これはある種の充足を得させもした。男は押し入れを開く。ひよこの形をした宇宙は、母の楽譜を食している。暗黒に沈む音楽を考えると、男は一体何人の作曲家が今までに産まれ死んだのだろう、という疑問に思考を到らすのだが、残念なことに、男は精々二十人ほどしかコンポーザーの名前を知らない。男は母の金魚色のネグリジェとか、七号室の女のミントグリーンのセーターとか、テレビの俳優の燕尾服とかを思い出しながら、シーザーサラダに半熟の卵を落として、少し満足する。男は壁を見る。宇宙は膨張している。男は天井を見る。この部屋に背負われた、さらに一階層上の部屋について考える。もし五号室に新しい入居者が来れば、宇宙はさらに進出してくるだろう、と思う。

 母があそこに行くことになった日のことを、男は思い出す。父は善人だった。母はピアノさえあれば生きていけるのだろう、と少年だった男は考えていた。母はピアノの前に座れば、植物のようにじっと動かなくなる。祈っているようにさえ見えた。母は人付き合いの出来ない質の人間で、唯一の友をピアノにしていた。母は作曲の才はあったものの、周囲の人間には訳も無く忌避されるところがあった。ピアノは、母の指に、忠実だった。そのうちに、母は一日中、暗い部屋で、ピアノを弾くようになった。何かおかしい、とかつての男が思い出したときには、母は楽譜を書くこともせず、しまいにはピアノを弾くことにも倦んでしまっていた。それから、男の実家から、ピアノは骨董専門の楽器屋に運び出された。母の爪は、植物と動物の中間のように、丸まっていても、奇妙な尖りを見せていた。その頃の母は、ピアノに傷を付けるのが、特別の祈りだった。それで、象牙の鍵盤には、動物さながらの爪跡がたくさんついていて、そのひとつひとつが、光の加減で生命を得たように輝いていた。男はその情景を思うと、今でも安らいだ心持ちになる。

 漫然と生きてきた、と男は考える。今まで何をして、何を楽しみ、何を食べ、何を成し遂げてきたのだろうか、とんと思い出せない、ということに、男は安らぎをも感じる。男は食事のときはいつもひとりで、定食屋に行く。定食屋のレジ係が疲れた表情をしていて、また男が財布から小銭を取り出そうと苦心しているときなどは、男は、定食屋の厨房から、豚のかたちをした宇宙が顔を覗かせているのを見る。
 深く、眠りたい、と男は思う。別に、死にたい、というわけではない。ただ、眠りたい、と思う。眠りを耐え抜いたとしても、また明日からは、生きていかなければならないのだ、と男は思う。陸に打ち上げられた魚群を、通行人の顔のモノトーンから連想する。自分もその中に居たらいい、と男は願う。その日は、展覧会の絵の原典版、それからラフマニノフと、ビーフシチュー。男は、皿洗いの最中に聞くラフマニノフは、妙に輝かしく聞こえるのだと感心する。上の階の住人は老年を迎えてしまったのだろうか、一日中物音を立てることがなくて、男は天井が宇宙に圧迫されているのを、徐々に感じ始める。

 生きるということは、そんなに苦痛ではなかった、と考えて、男はマンションの廊下で立ちすくむ。七号室から、古ぼけたピアノが運び出されていくのが見える。男は最後まで、七号室の女の顔を見ることはなかった。これで、両隣とも誰も居ない。その日、壁が、はち切れた。宇宙の姿が、男がマリネをこしらえる前で露になる。男は、ゆっくりと、長い息を吐く。階上、隣室のすべてが、今や宇宙になってしまったのだと、男は思う。浮遊する六号室について、男はこの部屋に自分が澄んでいる理由を、思い出そうとする。しかしそんなものは思い出そうとすればするほどますますとりとめのないものになっていくようで、男は諦めて、そら豆とベーコンのクリームスパゲッティを、丁寧に、丁寧に、食べる。

 事務室の女がとうとう退職をするとなったとき、同僚は皆温かな応対をしているように、彼には見えた。それが単なる社交辞令の類であろうと、そういった応対をされる、というのは素晴らしいことだ、と男はココアをすすりながら思う。ところが事務室の女は相変わらずの能面で、同僚たちの応対を嫌がっているようにさえ見えた。同僚たちはそれでも彼女の後ろ姿を見送った。男も参じた。いつでもこうやって、何かに参加しようとしていた、と自分のことばかり思われて、夕影を通り抜けて消え去りゆく彼女について、男は何の言葉も持てないでいる。

 どこにいても、男は宇宙が見えるようになる。いや、昔から見えていたんじゃないか、と男は思う。いつごろからこんなに料理に凝るようになったのだろう、とか。たとえば野菜を煮込むような時間は、今までどうやって潰してきたのだろう、とか、そんなことばかりを考えるうちに、一日が終わってくれるようになった。男はそれを、とてもありがたいと思う。そうしていれば、いつかは何もかもが終わるだろう、と男は思う。漫然と時間が終わっていく、というのは、美しいと思う。それはデカダンスとかでも、諦観とかでもない。今、母の楽譜はどこにあるのだろう、とふと思う。濁流のプレストは、静か過ぎる海に抱き上げられて、どこに骨を埋めるのだろう、と。一体誰が、今母の音楽を取り戻していてくれているのだろうか、と、そればかりが、気掛かりでならない。けれども、押し入れを開けたとき、でっぷりと肥えた鶏の宇宙の腹をかっさけば、案外楽譜は簡単に取り戻せるのではないか、と思って、男は何もしない。七号室と五号室のはざまの、この孤島は、いつか海に飲み込まれてしまうのだろう、と男は思う。そして、天井から、やわらかな水の影が織込まれてくるのに、男は、微睡む。

 男は、真夜中、壁の裂け目に手を入れる。熟れた果肉に似ている、と思う。無数のくちばしが、牙が、爪が、男の掌をなぜていく。男は、驚く。その宇宙から、もう聞こえないはずのジムノベティが、確かに聞こえてくることに。七号室の壁が、女のジムノベティを、吸収していたのだ。それでも、奏者の居ないジムノベティは、もうまもなく失われようとしていた。消えないで、と男は願うけれど、どこかで諦めている。女はこうして、一日ごとに七号室から消えていくのだと、男は知る。顔を知らぬ女が、どのような指使いで、どんな温度の息遣いで、ジムノベティを幾度となく引きこなしていたのか、男は壁から知りたい、と思う。けれども、壁は、そんなことまでは知らない。動物たちのにおいが、鼻先を掠める。音楽が、ひどくゆっくりと失われていくのを、男は、最後まで見届ける。そして、男は、泣く。

 男は、見知らぬ女からの電話を受け取る。女は伯母だと名乗る。伯母は名前を知るだけで、男は声を聞いたこともなかった。伯母と名乗る女性は、母が病院を抜け出した挙句に人に迷惑をかけてしまったのだと言う。伯母は迷惑と言ったが、たぶん迷惑なんてものではなかったのだろう、伯母は相手方が慰謝の金での解決だけを望んでいることを告げる。男は口座番号を聞く。男は、彼女は七号室の女でもあるし、事務室の彼女でもあると思う。ジムノベティが、聞こえない。そういえば、女はもう部屋を出ていったのだと、男は思い出す。宇宙はさらに膨張していて、もう一ヶ月もすれば、この部屋は埋まってしまうだろう、と男は感じている。実際扉を開けるのにももう一苦労なのだが、とにかく男は次の日仕事を休んで銀行に赴き、ちょっとした分になる金を振り込む。ありがとう、と男は思う。男はそれから、再び苦心して扉を開き、押し入れの前に座る。目をつむる。全てを忘れようともした、全てを思い出そうとした、どちらもできそうになかった。軋む押し入れを、やっとのことで開く。宇宙の卵が、溢れんばかりに転がっている。男は、鶏の死骸を見つける。卵を産み尽くすので精を使い果たし、こうして死んでしまったのだろう、と男は推測する。にぎやかな水族館の音楽を、考える。今は聞こえないジムノベティに耳を澄ませながら、男は鶏の死骸に顔を埋めた。星のにおいが、確かにした。それから男は、深く、眠る。