Re: ペナルティ消化スレッド ( No.14 )
日時: 2009/03/07 23:33
名前: eSQue

第七回中短編コンテストペナルティ作品、eSQue、「グランド・ワルツ・ブリラント」

 放課後の音楽室のぬるさが好きだ。私はピアノの心得なんて毛頭無いし、楽譜も読めないような門外漢の有様だから、音楽を味わう権利は本当はない。けれど、音楽室の、調和のようなもの、ピアノしかないということが、好きだ。だから、放課後はいつもピアノの椅子に座って本を読んでいる。
 本は好きだ。時間が潰れるから。音楽室が好きだ。誰もいないから。ピアノを弾きに来るような物好きの人なんて居ない。鍵はいつでも開いている。ささやかな西域、のようなもの、誰もが持つそんなちっぽけでつまらない場所を、私は外に持っていた。
「痛いねそれ」と、ちーちゃんは言う。「こっちも言える立場じゃないけどさ」
「別に問題とかないから」フローリングの床に寝そべって。「いいんじゃない」
 音楽室のフローリングの床が、好きだ。床に寝そべるというのは、たとえば大地とか野っ原に寝そべってるみたい、なにものかに今にも飲み込まれてしまいそうで、好きだ。
「今日はねー遅く帰るんだ」ちーちゃんが私の髪を玩ぶ。
「お母さん帰ってこないんだ」
「そうだよー。いいだろーぬるいぞ」
「まーねー」
 ちーちゃんのところは、お母さんがお水をやっていて色々と揉めたりするんだ、と聞いている。まあ、そういうところだっていくらでもあるだろうなあ、と思うので、別に何も思いはしない。で、最近は、帰りたくないそうなので、こうして私と音楽室に居る、というわけだ。
 音楽の先生は博物館に寄贈した方が良いような、カラヤンが死んだとしてもあんな衰え方はしないだろうなあ、みたいな見栄えのおじいちゃん。おじいちゃんは私に無言で鍵をくれた。聞くところによれば、音楽室に不安定ぎみの学生がやってくるというのは、センチメンタルで馬鹿極まりない高校一年生にはよくあることらしい。
「私センチメンタルかなー」床の上をごろごろごろ。「有閑ガールじゃん」
「すっげーおやじくさいなーその物言い」「成熟してるって言ってよね」
 ちーちゃんの爪を見る。
 とても、短い。でも、きれいだ。

 その日はぼんやりと本を読み、借り物の鍵でCDを聞いた。ちーちゃんはワーグナーがいいと言った。景気の良い音が出るからって。それじゃあちーちゃんパチンコの軍艦マーチと変わらないよ。そうそう、私は青春捨てた女よ、ぐふふふふ。で、笑う。んー何つける? 鬱っぽいのはやだよねー? ばかっぽいのがいいな。ばかは好きだよ。かわいいから。ばかー? んー、と考える。シュトラウスかな。誰そいつ。風呂の人。で、美しき青きドナウ。あー。とごろごろ転がっていくちーちゃん。本当だ。ばかっぽい。床の上に寝る。ちーちゃんの髪をいじる、ちょっぴりぼさついた髪とか、色んな染みの取れてない制服とか、窓ガラスの外で汗水流してる運動部員とか、遠くから聞こえてくる色んな人たちの笑い声とか。
 私は、とても、幸せもんだなあ、と思った。だから、死んじゃえばいいなあ、と。

 ドボルザークの家路がかかって、わたしたちは手をつないでぶらんぶらん、と川の道を歩いていく。ちーちゃんは港の街に住んでいる。私はちーちゃんの洗剤でがさついた手とか、冬の寒さに荒れ果てた皮膚とか、時々かじってしまうから手入れなんて到底出来そうもない深づめとか、そういうところが好きだ。
「最近恋したわー」ちーちゃんが急に言う。「ふーん」だからといって何も無い。
「でさー、その人のかさかさなところとか、べたべたなところとか、くちゃくちゃなところとか、しゅわしゅわなところとか、ざっかざっかなところとか、全部好きになってたんだけど、ふられた」「わーかわいそう」
 二人で、笑った。
「お母さんに怒られたのよね。お客さん取らないでよって」「わーそうぜつだ」
「すごいよね、昼ドラ感ばりばりだった、あたしお母さんのことひっぱたいてやった」「すごいだめじゃんそれ」「仕方ないよ。取っ組み合いの喧嘩だったから」
 前にちーちゃんのお母さんを見たことがある。
 眉がぐっと伸びてて、誠実そうな眼をしていて、物腰のやわらかで、でもちーちゃんに通ずる開けっ広げさのようなものを確かに具えている人だった。だからわたしは、こんなにもちーちゃんと、話せるんだろうね。

 別にうちの家庭に問題はない。布団の中で。ちーちゃんの家庭にもあんまり問題はない、と思う。すごく深刻な話とかは、ない。本当にない。おとーさんは銀行員おかーさんは学校の先生と黄金的に安定した家でぬくぬくと育ててもらっている。昼間は誰も居ない。別段寂しいなんてことはなかった。でもある日から、音楽室に居着くようになった。音楽室の鍵があれば、どんな扉でも開けられる気がしたりする。そんな自分を、甘えたがり屋だと思う。最初から色々わかってるよ。私ばかじゃないよ。一体誰に、何を言いたいのだろうか。最初から言うことなんてない。暗闇で目をひらく。何も見えない。好きだ、こういうことが。

 音楽室には、私とちーちゃんがだらだらと過ごしているばかりではない。時々はお客さんが来る。つまりは別の誰かがね。でも大抵は顔も知らない人だから、こんっちわーと一礼して、私とちーちゃんはのったりたりと過ごしている。その知らない誰かはちょっと気まずそうな顔をして、ニ時間ぐらい居座って、俺何してたのかなー、とか、あたしってやっぱバカじゃーん、みたいな顔して、すっきりした顔していて出ていく。そんなとき私は、黒板消しをそいつの背中に投げたくなる。ちーちゃんはあれバカだよねーって言う。私もそう思う。
 で、その日は違った。
 凄い細身の子で、今にも風で倒れてしまいそうだった。ショパンってこんなのだったのかなあ、とぼんやり思った。後、左腕にギブスをしていた。ギブスっていうものの美しさに私は思わず見とれてしまいながら、「はろー」と。ちーちゃんも「やっほー」と。
「はろう」その子はさらっと。「ピアノ弾いていい」
「別に許可は要らないよ」ちーちゃんが言った。「でもその腕じゃ弾けないね」
「右で遊ぶだけ」そいつ。「右腕、死にかけてるから」
「死にかけてるってどゆこと」私。「壊死とか」
「そうじゃなくて、単になまってるってだけだから」ピアノの蓋を片手で開きながら。「久々に弾きたいなあと思った」黒鍵を。「すごいぼろいね、これ」「ぼろいの」ちいちゃん。「うん。とんでもない年代物、おばあちゃんもいいところだ」「ふーん」私とちいちゃんは揃って嘆息。ピアノに古いとか、新しいとかがあるとは思ってもみなかった。なんとなく、ピアノという楽器は、この世の中で永遠を保ち続けていてくれているんじゃないかなあ、とかシューマンを聞きながら二人話し合ったりしていたのだ。
「何弾くの」聞いてみる。「思い出したメロディをちょっと、だけだよ」
 右手が、本当に眠りから目覚めるように、おぼつかない歩みをはじめる。たん、たっ、たら、た、らら、たら、たん、たらたら、たんたん、ららんたん。とってもとってもスローなペースで。楽譜から水で戻されたように蘇るはずの音の鰭が、沼地のようなラルゴにべたついてしまっている。
 でもそのメロディーには聞き覚えがあった。
「ショパンじゃん」
「当たり」
 にっこり。
 その子は、若木くんと、名乗った。

 ショパンみたいと思った奴がショパンを弾いたとき、そいつは女たらしかろくでもないやつか生活力が無いかの三択だと思っている。根拠はない。若木くんは、すごく、ずうずうしかった。なんというか、ナチュラルなずうずうしさがあるのだ。別に干渉とかはしてこない。でも存在感がある。しんどいタイプだなあ、と思った。「俺、こっちだから」で、若木君の背中が見えなくなって、私とちーちゃんは、ふー、と息を付く。
「しんどいねー」ちーちゃんは、相変わらず開放的だ。「ほんとにしんどいね」親指と小指をつないで、台所のにおいとか水の音とか、包丁の音とか店の呼び込みとかの声が乳白色とダークなオレンジで混ざる夕闇へと、ひとつずつ、いっぽずつ。どこかへと踏み外して落ちないように、迷わないように、そんな具合に。「もうこなかったらいいなー」そうだなー、と私も思った。だいたい、人が来るって、しんどいのだ。
「今日はおかーさんね、新しい人呼ぶんだってさー、めんどくさい」「あーそれやだ」「そうなんだよねー、すごいいやなんだ、ほんっとだるいんだよね」「ごっしゅうしょーさまー」「つめた」
 私達は赤ちゃんのような言葉で話すけれど、赤ちゃんには戻れない。河原に、なぜか、足が。背中をくっつけ合う。指を。髪を。
「すごい眠たいなあ」ちーちゃんは、本当に眠そうな声で。「このまま寝たい」
「どこに行くんだろうね、そうしたら」私は頭を草原に付ける。草の、あまくてすっぱいにおいとか、虫のあしずりとか、汚水のきたならしいにおいとか。「川のそばで寝れば、川がどこかに運んでくれる、みたいに思ってたよ、昔は」
「行きたいなー」ちーちゃんの髪が、私の息を、覆う。「帰りたくないなあー」
「むりだよね」むりだ。「帰らないわけにはいかないよね」
「案外いけるかもよ」息音とか皮膚とか体温とか、ちーちゃんが、そこにある。「誰かに囲ってもらえればいいんじゃないかな」
「だれに」
「若木君とかでいいよ」
「あー、ああいう子って女たらしっぽいよね、病弱の詩人、みたいで」
「たっはー」
 二人で笑った。すごい悪趣味だ。
 川の濁る光が目に落込む。頭蓋骨に水が入ってくるような気持ちがする。川は人体を運んでいる。私達は目をつむる。夕闇が急速に燃上がり彗星になって時間の宇宙へ衝突していく。川は、人体を。運んでいってくれたら、いいのに。

 結局その日は、私達は共に寝つけずに帰った。けれど、何となくだけれど、この日私達は何かを踏み外した、というのを確信したようだった。ホームレスみたいな。どこでも人間は寝れる、ということを学んでしまったようだった。ホットカーペットの上はきれいできもちいい。草の上はきたなくてきもちわるい。ベッドの上はやわらかい。音楽室の床は、かたい。寝返りを打つ。シーツはどこまでもやわらかくて、おそらく川よりも、なだらかに流れを注いでいくのだろう。どこか遠くにいきたい。シーツのせせらぎに乗って、枕の舟をこぎながら、どこか、どこまでも、遠くへ。旅をしたいなあ、と思った。できればちーちゃんとがいい。ちーちゃんと、トルコかチェコに行ってみたいなあ、と思った。でもそんなことはありえない。よくはわからない。学生は夢見る生物じゃないとね。でも、絶対に、そんなことはありえないんじゃないかなあ、と、思ったのだ、私は。布団は柔らかい。家は柔らかい。壁が柔らかい。手をやる。ぐにょりと飲み込む。私は落ちる。と思えば飛ぶ。星へ。星に乗って。ハンガリアの舞曲を口ずさみながら、コーカサスへ。
 夢だった。死にたい。

「また来るの」「来たら迷惑」「うん」と、私、若木君、ちーちゃん。
 若木君の居る音楽室は、やっぱり何か落ち着かなかった。何でだか解んない。やっぱりあのギブスのせいだろうなあ、と思う。ギブスのままで、今日の若木君、サティだ。老人のような指で。あんなにもなめらかに、輪郭を失ってしまった指で、あんなにインテリでグロテスクで好事家的で最高に官能的な音楽を、やろうとしている。指が走る。指が、指が。サティのグロテスクさが、テンポの遅さでさらに増す。きもちわるい。こんなサティいやだと思った。ちーちゃんもすごくいやそうな顔をしていた。このピアノはとても気持ちが悪かった。
 へたくそ、とちーちゃんが言った。ピアノが止まった。あー、と思った。
 両手使えたら、もっと上手く弾けるんだよ、と若木君は言った。
 それから若木君は、華麗なる大円舞曲のメロディーを、すごくどんくさく。
 私達は、いやみをこめて、サン・サーンスの動物の謝肉祭の、それもピアニストのところを何千回とかけてやった。動物園の檻に閉じこめられたピアニストは、いつもヘタクソで、それも練習曲をぶきっちょにしか弾けないのだ。そんな曲だ。
「あのピアニストってさ」若木君が五十七回目のピアニストに言った。
「案外うまくない」

「あの人変だ」ちーちゃんの意見は私と合致していた。いつもの帰り道。今日のちーちゃんは普通だけれど、でもやっぱり私と同じで、人間はどこでも眠れる、ということを学んでしまったらしい。あの河原は通らないことにした。二人で話し合って、水のまわりは寄りつかないことにした。河には、魔力がある。河はたしかに、人体をはるかとおいどこかへと、連れ去っていってしまう。
「明日さ、私音楽室で寝ようと思う」ちーちゃんが、私の頬に指をやって。
「いいねそれ」
「来るの」
「当たり前じゃん」
 気分は旅人。

 その日、若木くんは来なかった。私達は若木くんの腕がどうしてあんな有様なのかを語った。もしかすると悲劇のピアニストを演出するための壮大な小細工なのかもしれないとか、シューマン気取りなのかもしれないとか、私達はそんな風にして、若木くんのことを罵った。たぶん、私達は、理由がどうであれ若木くんが苦労していることに、ちょっとだけでも不幸であることに、嫉妬していたのだ。私達は水も飲まずに、音楽を聞いていた。夕闇が、あまりにも早く、沈下していく。夜が。夜が来る。私はちーちゃんの、瞳の黒に触る。ちーちゃんは私の心臓に耳をやる。生きている。生きていた。不幸じゃないのに生きていた。「私達は、たぶん、ばかものだ」と、ちーちゃんが言った。遠いどこかで、河が、たとえばセーヌ河に、たとえばライン河につながりながら、今も人体を流している。私はピアノの椅子に座る。聞いただけの、華麗なる大円舞曲のメロディを、弾いてみる。ずっとずっと、下手くそで、気持ち悪かった。月が出ない。まだ、月が、出ない。河に塞止められているのだろう。
 もう私達は、どこであっても、眠れることだ。記念すべき、ことだ、きっと。
 「おやすみ」とちーちゃんは言った。「おやすみ」と私は帰した。「おやすみ」とショパンは言った。「おやすみ」と老人のようなピアノは言った。「おやすみ」と若木君は返した。「おやすみ」とちーちゃんのお母さんは言った。「おやすみ」と私のお父さんは返した。おやすみを、河が届けていく。ハッピーバースデー、おやすみ、来年もまたよろしく、おやすみよ。私は、泣いた。