プラナリアは地図する ( No.9 )
日時: 2008/08/15 23:56
名前: Raise

 「キタラの演奏家がキタラの演奏家であるのは、キタラを演奏しないこともできるからだ」――Giorgio Agamben (原著), 高桑 和巳 (翻訳) 「バートルビー、偶然性について」

 アサコにとって、世界はプラナリアのようだった。ときどき思うこと、プラナリア的に、わたしたちは繁殖する、生きる、潰れる、渇く。アサコは夜の光に目をやりながら、ひどいセンチメンタルに陥るものだった。
 わたし、プラナリア。
 勤め先の図書館、閉館時間前に本の整理をしていると、アサコは決まって宇宙と子宮のことを思う。子宮で細胞は分裂、図書館で作者は分裂。そういえば、フーコーが作者についていろいろと言っていたけれど、アサコはまあいいか、と忘れる。
 アサコはときどき、同居人のハルヒコとケンカをして、決まって次のような文句を持ち出す。「どうしてあなたは、わたしをわかってくれないの」そう言えば、ハルヒコも慣習的に、「どうしておまえは、おれをわかってくれないんだ」と。
 アサコは平日には図書館とアパートを往復し、休日にはアパートのキッチンの片隅でうずくまっている。ハルヒコはそんなアサコを尻目に、レジャーに出かける。
 アサコはときどき、自分を見失う。帰宅、夕闇、いつのまにか自分がふんわりと離陸してしまっているのを感じる。感じるだけで、本当は夕陽を見上げているだけなのだけれども、赤風船なんて飛んでたら、それ一個でアサコの意識は崩壊する。ときどきはそのまま動けなくなって、探しに来たハルヒコに何とか助けてもらう。
 わたし、崩壊中。
 だいたいこれが、アサコをめぐる、日常のすべてである。

 そんなアサコにも、ときどき、変化のきざしが見られなかったわけではない。たとえば、ハルヒコが家を出ていっただとか、ペットの金魚が死んだ、隣人のクマタさんが消えていった、旧友のカルくんが交通事故で死んだ、等。葬儀、婚約、その他、と言わんばかりに、アサコの日常を式典が魚群のように駆け巡るが、アサコに感慨は無かった。そんなことよりも、アサコ自身の行方不明がよほど問題だったのだ。
 事は先月七月の日曜日、アサコがいつも通り振動しながら、真昼の図書館で縮こまっていると、自分泥棒がやってきて、「もらっていきますよ」と、しごくあっさりアサコを盗んでいってしまった。自分泥棒というやつは、きれいな身格好をし、ルックスも良いもので、とうてい泥棒とは思えなかったのだが、しかし盗まれたのなら仕方ないとアサコ、司書の席を外れて、ハルヒコに連絡した。
「よう」「やあハルヒコ。なんか、わたし、盗まれた」「カリオストロか」「そうじゃなくて、わたしが、盗まれたの」「何とまあ」(沈黙)「どうすんの」「取り返さなきゃ」「警察にでも出すの」「出せないよ、出し方もわからないんだから」「じゃあ、適当に帰ってくるの待てば良いんじゃない」「淡泊だ」「すまん」「じゃあどうにかして」「どうしようもない」
 アサコは溜息を付いて電話を切った。すぐに電話が鳴ったが切った。
 その日は何の支障も無く、司書務めを終えた。アサコは安部公房の「壁」を思い出したが、ああいう具合に日常生活に不具合が出るようなことは無い、とみて良いようだった。

 アサコはハルヒコと同居している。といっても、別に恋仲ではない。単なるルームシェアリングの関係だ。共に寝たこともないし、何か特別な関係に陥ったこともない。ハルヒコは会社員で、大変な働きぶりだ。毎夜残業帰りに接待ビール漬け、しかも三時間寝ただけで朝にはきれいなハルヒコなのだから、アサコはときどき、本当は何人ものハルヒコが居て、疲れすぎないように入れ替わっているんじゃないか、と思うことがある。
 アサコはハルヒコと恋愛関係に陥っているわけではないが、友情ならある。ハルヒコはたびたび、アサコの窮地を救ってくれた(といっても、精々アサコの自分崩壊とか、徘徊のときだけれど)。
 ハルヒコは黒猫のチャイを飼っていて、この世話をアサコに任している。といってもアサコはチャイの世話なんて金輪際したこともなく、ときどき皿に餌を出しておくだけだ。ハルヒコはさらに、カナリヤ、九官鳥、鷲、うぐいす等、無数の鳥を飼育している。ただし、自由に放している黒猫チャイを除いて、みんな空想の籠に入れてしまっている。
「ハルヒコのペットって、みんなかわいいの」アサコはときどき、たずねる。「みんな、かわいい」「わたしよりも、かな」特に好意があるわけでもない相手に、こういった言葉をかけるのが、アサコの数少ない趣味のひとつだったのだけれど、「うん」と、即答するような相手には、アサコの楽しみも成立しなかった。「わたしもペット欲しいな」「飼えよ」「頭の中で」「そう、頭の中で」「いいよ、疲れるから。私は、ハルヒコみたいに、頭をいっぱい回せないから」「頭悪いね」「うん」
 ハルヒコのように、頭の中でペットを飼うことが、最近の世の中のブームだと知ったのは、同居してからずっと後になる。アサコとハルヒコのアパートはひどい田舎にあって、アサコは特に世俗に疎かった。ハルヒコのような人たちを、ペットキーパー、と呼ぶのだと聞いた。「ひとつの病気なんだって」と、ハルヒコは繰り返し言う。「ちょっと頭が広いだけなんだけどな」とも、付け加える。

 家に帰る、ハルヒコのビールと、チャイの餌、それから晩ご飯の材料をスーパーで。今夜で野菜は全部使えるかな、枝豆はおつまみ、肉は全部焼いて、そんなことを考えながら、鼻歌、アサコがあかねいろの坂を上り詰めるとき、見てしまったのだ、夕陽。それも、アサコが自分を崩してしまうときの、だった。
 いけない、と思いながら、素数の回廊に頭から飛び込みながら、おぼろげな帰路を歩いていくけれど、どうしたことだろう、アサコは別に何ともなかった。どうして、訝しみながら、坂の終わりに目をやる、そこにもうひとりのアサコが居る。
「やあ、わたし」そのひとは、同じ顔をしているが、アサコよりもずっとボーイッシュに髪を切っていた。「生きてるかい、わたし」アサコはどぎまぎしながらも、「生きてる」「そりゃあ良いことだ、頑張ってこれからも生きてくれ」「がんばるよ」そのアサコ・ボーイッシュは、アサコの買い物袋をふんだくって、「持っていくの、手伝ってあげるよ」私にしたら、ひどく素敵なひとだ、とアサコは考えながらも、「いいよ、自分でやるから」「強情め」「何か、自分でしなきゃいけない気がするよ、こういう日々の営みって」するとアサコ・ボーイッシュ、頬を膨らませ、「わたしじゃん」アサコはそう言われると、どうにも言えない。その隙に、買い物袋をかすめられてしまう。「待って」アサコよりずっと早く、アサコ・ボーイッシュは走っていく、あかねいろの方角へ。
「料理は、お願いね」とアサコ・ボーイッシュ、ハルヒコが几帳面にも整理した部屋に入るなり。「じゃあ、あなたは何をするの」買い物袋の材料をまずはきっちり冷蔵庫におさめる、ボーイッシュはテレビにリモコン、「そうだね、ペットの子に餌やってやんなきゃ」「チャイなら、もうあげてるよ」「そうじゃないよ。ハルヒコの頭の中の子だよ」アサコ絶句、「そんなこと出来るの」「出来るよ。わたしとハルヒコは、同じ森でつながってるから」アサコ呆然としながらも包丁でネギ刻む、ボーイッシュ笑う、笑う、笑う。「それじゃあ、そんなわけで、餌やってくるよ」「いってらっしゃい」と、アサコはそうとしか言えない。そしてボーイッシュはテレビをつけながら眠る眠る眠る、空想の世界ならアサコも突き落とされてしまうことがしばしばあったからどうにも言えないけれど、まさかハルヒコの頭にまで突き落とされる自分が居るとは、さすがのアサコにも想像が出来なかった。
「おかえり」と、いつのまにか目覚めているアサコ・ボーイッシュと、料理をすっかりこしらえあげたアサコが重ねて、「ん、誰か居るの」と間延びしたハルヒコの声、「そういや、自分が盗まれたって言ってたけど、おまえ大丈夫なのか」「うん大丈夫」ボーイッシュが答えるものだから、「もう、勝手に返事しないで」とアサコ、「友達とか来てるの」ハルヒコ、アサコは正直に「ううん、わたしが居るだけ」「二人目かあ」「そう」「分裂したわけだ」「そうそう」「まあ、盗まれるなら、分裂してもおかしくはないよな」「だよね」と、ボーイッシュ呑気な声、「俺としては、こっちのアサコの方が好みかも」食卓に着くハルヒコ。
 チンジャオロースつまみながら、「そういやさ、餌、やってくれたの」「え」困惑するのはアサコ、にんまり笑うのはアサコ・ボーイッシュ、「うん、私が」「ふうん。なんか、みんな嬉しそうだったよ。俺の頭の中でぴょんぴょん跳ねてて、けっこう迷惑だった」「あ、悪かったか、もしかして」「いや、ありがとう。何か最近餌やるの忘れてたみたい、すっげー喜んでた」「そりゃあ、嬉しいねえ」
 チンジャオロースとビールの食卓を、アサコ、ハルヒコ、アサコ・ボーイッシュの三人で囲む。プラナリア的に、食卓の勢力が分裂していくのを、アサコは感じ取る。それでも、アサコ・ボーイッシュを加えた食卓は普段のアサコとハルヒコだけのそれと大して変わりなく、アサコはそれだけに、自らの崩壊を感じ取るのだった。ところで、わたしは、きっちり物を食べれているだろうか、とふと考える。

 食べること! アサコはつねづね、食事が面倒だった。完璧な食卓は病室にも、さなぎにも似ていると思った。元来が蒲柳の質と来たものだから、アサコはたびたび、体調を崩した。ハルヒコにそのことを言うと、頭の子のために俺は食べなきゃならん、だから飯は毎日作れ、とぶっきらぼうに返される。
 しかしハルヒコはアサコが倒れ込む度にかいがいしく世話を見るものだから、アサコもつけ上がって、気力で持ちこたえられそうな程度の不健康も我慢しないようになった。アサコの病気が長引くにつれ、ハルヒコの有給は時間と経済のワムシに食い尽くされていく羽目になった。
「モラトリアム」と、ハルヒコはたびたび言う。「おれは父親じゃない」
 ベッドのアサコは、そのたびに、「そんなの解ってる」と返す続ける。「わざわざ文句言うなら、看病なんてしないで会社に行けばいい」
 アサコがそう言えば、ハルヒコは気まずそうに、「おれの頭の子に餌をやれるやつが居なくなる」と返す。アサコは幸福な溜息で布団に潜り、つむる目の色彩で見る、極楽鳥、九官鳥、カナリヤ、無数のレイン・バード、むくどり、ほととぎす、かなりや。鳥の楽園に踏み込んだアサコは、ハルヒコの頭がこれ以上狭くならないようにと、でも頭の中を死骸だらけにさせないように、餌をほんの少しだけやる。
 ハルヒコの頭の中の鳥たちはひどく飢えていて、少しでも餌をやれば楽園中が羽音でうるさくなる、アサコは耳を押さえる、ハルヒコは粥を作る、有給は消化。
 しかしアサコはハルヒコに餌やりのことを伝えもしないし、実際に腹の足しになったのかも確かめもしない。そしてよく不思議に思う、ハルヒコはどうやって自分の頭に餌をあげてるのだろう、と。鳥の咀嚼が現代人の嘔吐。

 アサコ・ボーイッシュとアサコとハルヒコの、はじめての夜は案外好調に走り出した。ハルヒコはアサコの分裂を別段気に留めている様子でもなく、自然に受入れているようだった。狭い部屋の分割も、アサコ・ボーイッシュがバスルームで寝る、ということで落ち着いた(さすがにこれはハルヒコも受入れ難い様子だったが、アサコ・ボーイッシュがバスルームを強く希望したのだ)。
 バスタブに予備のまくらをひとつ入れ、すやすやと眠るアサコ・ボーイッシュの姿を視ていると、アサコはプラナリア的世界を考えさせられる。図書館はプラナリア的である、本屋はプラナリア的ではない。子宮はプラナリア的である、性器はプラナリア的ではない。アサコは、アサコ・ボーイッシュの寝姿に、分裂したのではなく、切断されたのではないか、と考える。すなわち、アサコは三等分され、そしてプラナリア的に、再生していっているのではないか、と。
「かわいいね、あの子」布団のハルヒコのことばに思わず、「うん、そう思う」と賛同してしまう。「何それ、うぬぼれかよ」「うん」ハルヒコは沈黙。
「寝るぞ」ハルヒコの蝶のようなゆびが、蛍光灯を消す、しずむねむる。

 次の日の朝、アサコが図書館、本または本あるいは本のサンドイッチで我を失っていると、またもやアサコがアサコの眼前に現われることとなった、その日は都合よくも職員はアサコひとりしか居ない。「ハロー」「こんにちわ」アサコは、世界のすべてが、子宮の相似形であるということに想いを巡らせていた分、二人目のアサコの来訪には気を取留めようとはしなかった(そもそもアサコは、朝起きて隣に誰か居る、ということに価値を見出さない)。「アサコ、一体何を読もうとしてるの」「何にも」「何も読んでないなんて、司書に不釣り合いなことこの上ないわ!」「キタラの演奏家がかくあるのは、キタラを演奏しないこともできるからだ」「何それ?」「ひとつの公式」
「退屈」アサコ・ボーイッシュは、ファッション詩を左手、紙コップコーヒーを右手の完全武装、アサコはそれにようやく目を留めて、「飲食禁止」、しかしアサコ・ボーイッシュは気にすることもなく、「そんなの、どうだっていいわ」「何とまあ」「公式なんて役に立たないよ」「数学と一緒で、みんな役に立ってるよ、なにかの」「どうでもいいことじゃない、そんなの。そんなことには、心躍らされたくないから」「じゃあ、何が好き」喋り過ぎだと感じながら、アサコは司書席に、アサコ・ボーイッシュはカウンターに座る、真昼の老人の白々しい視線、「ばかみたい」アサコ・ボーイッシュは悪態を付くが、「悪いのはアサコじゃない」黙らされる。
「今気付いたんだけどね」アサコは、アサコ・ボーイッシュの短く切りそろえた髪に手をやる、「わたしがわたしであるのは、わたしじゃないこともできるから、だとも思う」「どうでもいいね」「でもまあ、わたしはどこまでいっても私だから、どうしようもない」「どうでもいいね」アサコ・ボーイッシュは反復する、「君とは仲良くなれそうもない、そんなこと、どうでもいいから」アサコ・ボーイッシュは見限る、「そう。あなたがそう思うなら、どうしようもないわ」「だね。さよなら」アサコ・ボーイッシュは図書館を出る、アサコ沈黙、カウンターのファッション詩片付けコーヒーはゴミ箱、プラナリア的に、光分裂、書庫分裂、アサコは分裂。うにゆーんうにゅーん、ぐにゅーんぐにゅーん、等、等、等、分裂の生理音。
 アサコの意識や視界、水や光など、学説、作者、プラナリア的に分裂していくすべてのなかで、ふとアサコはその彼女を気に留めた。何を考えているのか解らない、ぼんやりとした表情。アサコ心中にて反復、しかしその彼女は、アサコの顔をしていたものだから、どうにもアサコも手を付けないわけにはいかない。「こんにちわ」またもや司書席を抜け出し、挨拶するも、相手無反応、「あの、こんにちわ」反復−無反応、老人達はゲートボール、真昼の図書館は人気無し、「ごめんなさい、ちょっとこっち見てもらえるかしら」すると手持ちぶさたの彼女、「そうしない方が好ましいのです」アサコは呆然、アサコの顔をしたパロディへ。「メルヴィル、好きなの」質問−無反応、「今のって、何だったかしら。古本屋だったかしら、ディーラーだったかしら、取引人だったかしら」、会話を切り出す−無反応、「答えない方が好ましいのです」「そうそう、代書人だったわ。メルヴィルはそれきりしか読んだことがないから、何も言えないんだけど」「代書人バートルビー」はひどくアサコの胸を打つ小説だった、だからアサコは、この、「ねえ、あたはあの本を読んでどう思った」「答えない方が好ましいのです」三人目のアサコに、アサコ・バートルビーと命名した。それにしてもバートルビーとは何とも不吉なシンボルだとアサコは考える。「ねえ、あなた。今日は私の家に来ない」予想通り、勧誘−「そうしない方が好ましいのです」、アサコ溜息。
「ハルヒコ」アサコは廃虚めいた、しかしプラナリア的−子宮に相似の図書館を出、携帯電話、「今日の夕方、無理やり連れ帰って欲しいひとが居るの、図書館で」「何だよそれ、犯罪っぽいぞ」「仕方ないの、私なんだから文句は私に言ってよ」「言ってるじゃん」「そうだった、私だった、しまった」「バカめ。ていうか今度は厄介なお前が出てきたのね」「そうそう、そうだよ。二人目の私も何か、どっかいっちゃったよ、もうやだよ」「別に戻らなくても良くね」「いやそうだけど」「ラッキーぐらいに思えばいいんじゃね、そんなの」「でもそもそも、泥棒に盗まれた私が、そのまま分裂しちゃったんだし、幸運とも言えないわ。今のところ何も無いけど、でも顔形が一緒なんだから、悪いことする私とか居るかもしれない」「うん、まあいるよ、どうせそんなの」「でしょ、こうなるとあれよね、人間には天使と悪魔が付いてるなんてオカルトも信じないわけにはいかないわ、だからとっとと私を回収したいのよ。それに一匹、早速図書館の閉館時刻を守りそうにない子が居るし」「それはまた厄介な。まあ解ったから、夕方にまた」「はいありがとう、仕事中にごめん」、アサコは回帰、本から本または本の森。
 人影の無い図書館でアサコは物憂げに考える、、ここで私が強盗か何かに運命に巡り合わされて、あの子に助けを求めても、「そうしない方が好ましいです」と来るのかしら、アサコ・バートルビーは静止・沈黙・無反応、図書館、ああ図書館、バベルの図書館よりもずっと小さいのに最悪の労働環境してる――図書館というものは、アサコをプラナリアの妄想に引き戻す一因のひとつだった、特にカラフルな書物の陳列というのはファッションショーめいている、アサコは吐き気、児童書、医学書、辞書、日本文学、ミステリー、アンソロジー、エンターテイメント、ええと後何があるかしら、語学、地学、数学、一体どうして分類なんてするんだろう、プラナリアでさえも、杯状眼、耳葉、繊毛、咽頭、アサコは眩暈、じゃあ私はどうなるんだ、アサコ、アサコ・アサコ、アサコ・アサコ・アーサコ、アサコは死にたくなる。しかしここでアサコが死んでも、残りのアサコが生きている。
 アサコはオカルト的な感興にカフカを持ち出してくる、カフカの「家長の心配」というたった一ページに集約されてしまっている小説、しかしアサコはなかなか目的地に辿り着けない、「皇帝の使者」417ページ、「家長の心配」418ページ、「最初の苦悩」419ページ、「断食芸人」421ページ、プラナリア妄想迷宮、しかしその入り口に捕まる前に何とか逃げ出して、アサコは読む、「家長の心配」、概要、オドラデクという生物が居るのだが、この生物は目的が無いから死ぬことはありそうもない、とある一家の父は主張、父は死ぬ、子供は死ぬ、しかしオドラデクは生きるだろうと想像、オドラデクは極めて無害であるがしかし、ここで父、「私が死んでもそれ(オドラデク)が生き残るだろうと考えただけで、私の胸はほとんど痛むくらいだ」、アサコ共感、アサコ思考、アサコは有害、しかし死後のアサコにとってアサコは大変無害、だが無害になったにもかかわらずアサコは生きる、アサコは耐え難い、ロジックは運動する、しかし、プラナリア妄想迷宮はアサコを依然追跡、アサコはどうしようもなくプラナリアを調べる、生物学の棚までは遠過ぎるがアサコはようやくの体で辿り着く、断片の河はマルケスに似て神話的、アサコはプラナリア迷宮にプラナリア神話で対抗、プラナリアには脳がある、プラナリアは再生能力が強い、プラナリアは有性生殖だって無性生殖だって可能、プラナリアは光から逃げる、プラナリアは扁形動物、プラナリーア、プラーナリア、プラナリーア、プラーナリア、プラナリアは合唱、アサコ呆然、図書館依然無人、時間は停止、アサコ恐怖、アサコはアサコ・バートルビーのアサコ的−プラナリア的な体温に身を寄せる抱きしめるキスする、ハルヒコはフラッシュバック−片隅に追いやられる、アサコ夢中でアサコ・バートルビーと有性生殖、しかしアサコは人体、アサコは卵を産めない、合致、アサコ・バートルビーがアサコ本体、プラナリアは再生する、分裂する、分裂、分裂、アサコはアサコのこどもたち、アサコは女王。
 インセスト・タブー。
「だめだ」アサコはアサコ・バートルビーに服を着せながら、「わたしもあなたもだめになってしまう」「そうならない方が好ましいです」「駄目になるなら助けてもらわないとね」「助けない方が好ましいです」「助けてくれるよね」アサコ・バートルビーは子供のような無垢の眼球、アサコの勤務時間は溶解。
 アサコは沈黙する。すべてはプラナリア的に分裂する宇宙の相似で、アサコもまた分裂している。アサコは赤のひかりに脅える、図書館無人、読まれることの無いテキストの群、アサコは書棚に隠れる、そこに地図がある。アサコの知らない土地がすべてある。アサコは地形図をなぞる、東へ進めば進むほどアサコは西へ進んでしまう。このすべてに、アサコが居る。アサコはプラナリア的に分裂しているのだから、やがてすべての地形図にアサコが登場することになるのだろう。
 プラナリアは地図する。
 アサコには幸運なことに、絶望の最中であっても、赤のひかりは萎む。アサコ・バートルビーと腕を絡め合う、背中を寄せ合う、時間の回転を待つ。ハルヒコはまだ来ない。プラナリアは地図する−アサコは膨張する。アサコは空腹だけれど、アサコはどんどんと星を覆い尽くしている。アサコは涙する。アサコは待つ。アサコはプラナリアだから光を食すわけにはいかなかった。時間の停滞にたえかねて、アサコが本棚に頭をぶつけて死のうとしたとき、図書館のドアが開く。
 沈黙。
 「よう、ちゃんとやってる」
 折よいハルヒコの出現に、思わずアサコは泣きつく。
 「どうした」ハルヒコは冷静、「やっちゃいけないこと、今日はずっとしてた」ハルヒコは二人分の衣服の乱れに着目、「そっか」「うん」「帰ろう」「どこへ」「家へ、帰ろう」「うん」、ハルヒコは静止するアサコ・バートルビーにてのひら、掴む、帰る。家へ、帰ろう。家へ。アサコは幸福。ホームへ。

「ハルヒコ」アサコは夜中にたびたびハルヒコに臀部を押し付ける。「死にそう」悲嘆、それに対し「ケツどかせ」ハルヒコは呆れ気味に、「話はそれからだ」、「無理なの」「何で」「腹がハルヒコの方向に向いてる」「訳わからん」「ハルヒコの頭の中の子に餌やりたいよ」「この体勢で餌って、ものすごく変態だな」「そうかな」「うん」「犬って欲求不満だと自分のうんち食べるんだって」「俺の頭の中に居るのは鳥」「変わらないよ」「変わるよ。おまえのケツがうざいって、頭の中で騒ぎ立ててる。よしてくれ、そんなの」「そうか。なら、仕方ないね」
 臀部が外れると、アサコはもう死にたくなんてならない。
「ハルヒコ」アサコは質問、「頭の中に鳥を飼うって、どんな気持ち」沈黙挟まれ、「たぶん、頭の中にトイレを作ってるのと一緒」「うんちするんだ」「するよ。生きてるから」「死ぬんだ」「歳を取るたびに一羽死んで二羽死んでる」「死体処理はどうするの」「肉はハゲタカ一族にやってるよ」アサコは夢想、ハルヒコの頭の地図はハゲタカ荒野にまで行き届いている、ハルヒコの頭は星、地形図の連続を包含していると、「みんな世話みてあげてるんだ。やめたくならないの」「なるも何も、俺の頭の中から出ていかないんだから、どうしようもない」アパートと月と街のしじま、「あのね、わたしときどき、わたしをやめたい。で、やめようとすると、次のわたしがやってくるの、突然、それで、わたしはどうにもやめられなくなる」ハルヒコは即答する、「だからそんなの無理だって。お前の頭から出ていかないんなら、どうしようもない」アサコ疑問、「じゃあハルヒコは鳥なの」頷く、「俺は鳥だよ、この星の渡り鳥だったり、ペンギンだったりしてる」「ペンギンなのにかわいくないんだ」「どうしてそんなことできるの」「神様のプレゼントじゃね」「こじつけくさい」「どうして」「それなら全部神様のプレゼントだ。わたしがこんなに酷い目にあってるのも、神様のプレゼントだ」「そうでしょ」「運命なんて、ジュブナイルで充分だ」「間に合ってないじゃん」「間に合ってる」「死にたいとか言い出すなんて、ジュブナイルまっしぐらじゃん」しじまに回帰。
「ハルヒコ」アサコは夢見る、「ハルヒコが鳥だったら、たぶんわたしハルヒコと結婚してた」「そうか。なら外に出ないとな。鳥になってるときの俺を探してくれないと、無理。ひとのかたちで結婚なんてしたくないから」「わたしもしたくない」「おまえはいつまでたってもひとでしょ」「ペットキーパーじゃないから、ね」
「あのさ、俺思うんだけど」沈黙は皮切りのために、アパートはハルヒコとアサコのために、「きっとアサコは、アサコをペットに買ってるんだよ」「こじつけだ」「うん」
 しじま、しじま。
「夢のなかだと」ハルヒコとアサコの指がからむ、「鳥になってる。これ、ペットキーパーの症状のひとつなんだってさ。飼ってる動物の夢ばっか見るって」「昨日は微生物の夢を見たよ」「じゃあ、アサコの頭には、微生物の塊が居るわけだよ。そうして、アサコのかたちをした群が、すべてのアサコ」「じゃあわたしがわたしをやめるには、解散って言ってやればいいのね」「そうなるね」「そうかあ」
 呼吸・「かいさーん」・路上にトラック。
「だめだ」「だめだな」
 月のしずくが、やわらかにアサコとハルヒコのアパートをとろけさせていく。

 ハルヒコに妄想の内容を説明するはずだったのに、アサコはプラナリアの話をする羽目になっていた。それも目もあたられないようなやり方だった。「ぷらなりあぷらなりあぷらなりあ……」プラナリアの話をしようとすると、アサコはもうプラナリアということばでしかプラナリアを説明出来なくなっていた。アサコ・バートルビーが惚けたような目つきで黒と赤のひかりを見ていた、「落ち着け」、ハルヒコはアサコ・バートルビーの背中を引っ張りながらも冷静、「ぷらなりあ、ぷらなりあ! ぷらなりあ、ぷらなりあ……ぷらなりあ……ぷらなりあ!」アサコは叫ぶ、ハルヒコに助けを求めた、しかしハルヒコは沈黙する他無かった。ホームに帰れるという希望はあっというまにプラナリア化したことばで打ち崩された。「プラナリアの話はもういいから」ハルヒコがふと立ち止まった、「あ、あれ見て」ハルヒコは空に指。「カラスだ」アサコ、「そうだね」、カラスの群で、プラナリアから帰ってくる。「あれもハルヒコの鳥なの」「あれは違う」「どれがハルヒコなの」「どれかが」赤黒く血液を垂れ流す空を横目に、歩き出す、「ハルヒコは自分から逃げたくないの」「鳥だから、どこまでも追ってくる。逃げるなんて出来ない。鳥は、はやい」「とりになりたい」「どうして」「食べてもらえるから」アサコ・バートルビーが口を開く、「そうしない方が好ましいのです」夕空に黙る、「あ」ハルヒコ声上げ、「どうしたの」「餌が来た」「アサコから」「そう、アサコから」アサコ・ボーイッシュの早い夕餉に、ハルヒコの頭の中は大騒動なのか、ハルヒコは頭をおさえたかと思えば身体を崩す、「大丈夫ハルヒコ」「じゃない」「電話するよ」「誰に」沈黙、ハルヒコは、今ここにいる、アサコにはもうどうしようもできない、「ねえ助けて」アサコはアサコ・バートルビーに哀願するが、「そうしない方が好ましいのです」アサコ呆然、ハルヒコもがくもがく苦しむ、それでも「ごめん大丈夫、歩ける」「どうしたの」、アサコ物憂げな表情。「俺、アサコとつながってる」アサコ間の抜けた声、「よくわかんないよ」しかしハルヒコの表情は真摯、「つながってる。俺、入り口のアサコとつながってる」、次第にハルヒコの歩調が早くなっていく、「ハルヒコ」アサコ叫ぶ、「ハルヒコ!」アサコ叫ぶ、「ハルヒコ! ハルヒコ! ハルヒコ!」プラナリアのことばのように、アサコはハルヒコを語るのにハルヒコとか言えなくなってくる、ハルヒコのからだが、夕闇に沈んでいくのが、アサコの視界をプラナリア的に分裂して埋め尽くしていく、「ねえ助けて! 助けて!」アサコは無策からアサコ・バートルビーに請願、「助けない方が好ましいのです」、アサコもつれこむ、路、土、光の死骸、「ぷらなりあ、ぷらなりあ……」泣く泣く泣く。

「アサコ」ハルヒコはアサコに提案する、夜、夕餉のメニューの餃子くわえながら、「テレビを見よう」アサコは皿から顔を上げ、「必要ないよ」「ある」「何を見ればいいかわからない」「ニュースだ」「時事なんて、どうせすぐ忘れ去られちゃうよ」「じゃあ地理の勉強でもするぞ」「どうして」アサコは箸を置く、「どうしてそんなこと言うの」ハルヒコは淡々と、「何か、外の世界のこととか、知らなきゃいけないような気がした」「そんなスペース、ハルヒコの頭の中にはもうないはずだよ」「あるよ。一杯ある。会社の仕事が大量に入っててもまだある」「わたしはわたしのスペースだけで精一杯なんだよ」アサコ叫ぶ、「でも、見なきゃならない。メディアを」「メディアなんて国家の陰謀」「それは言い訳」ハルヒコはNHKを付ける、淡々としたニュース、「NHKなんて殺人しか映してないよ、遺品見つかっただけで大騒ぎしてるよ」「それでもいいじゃん」ハルヒコの言葉にアサコはようやく沈黙、「そんなどうでもいいことから、何かを知らないといけないような気もしてくるよ、ときどきは」アサコは言葉に詰まる、ハルヒコは餃子を口に運んで続ける、「アサコってさ、図書館と家の往復で、他に何も知らないじゃん。俺も会社と家と、それから会社の駅のその先ぐらいしか、休日あわせても行ってない」「だから、世界を知るなんて、無茶苦茶だ」「うん」「おかしいよ」「うん」「変だ」「うん」アサコはそれでもNHKに目をやっている、通り魔事件の犯人の供述、「もともとアサコも俺も変な人だから、ときどきは普通のことしないと、本当に土から離れちゃいそうな気がする」NHKはシンボルで、ハルヒコはそれにすがりついている、アサコは無言に攻撃する、「ごめん。何かアサコと、普通のことやってみたかった。こう、人間っぽいこと」鳥だから出来ないのだろうか、とアサコはいぶかしむ、それでもハルヒコは充分人間として生きているから、それでいいのではないか、と思う、しかしハルヒコは納得せず、「でも、今日から、NHK付けよう、毎日。休みの日は、どっか外出よう」アサコは箸を動かし始める、餃子には涙のしずく、「泣かせてごめん」ハルヒコは謝罪、「いいよ」アサコ涙声で、「いいよ、ハルヒコが言うなら、ぜんぶ、いいんだ」ハルヒコは、「ありがとう」と。
 ふたりぶんの餃子が、ふたりの舌の奥底へと咀嚼されていく。

「ねえ、ハルヒコに何やったの」アサコは帰宅するなり、アサコ・ボーイッシュの胸ぐらをつかむ、「何もやってない」バスルーム、アサコ・ボーイッシュは鏡の前で漫画雑誌を読んでいる、「何もやってないぞ。ただ、餌やっただけ。一杯まいてやっただけだ」「でもハルヒコ、消えちゃったんだよ、どこかに」沈黙、沈む、黙る、いや、アサコ・ボーイッシュは辛辣な声。
「そんなこと、どうでもいいから」
「どうでもよくなんてないよ」「どうして」胸ぐらの手をアサコ・ボーイッシュは振り払う、「どうして」黙るアサコにアサコ・ボーイッシュは繰り返す、「ハルヒコはあなたの父親じゃない」アサコ・ボーイッシュは愛らしい顔で吐き捨てる、「モラトリアムめ」アサコ・ボーイッシュはシャワーをアサコに向ける、噴射、「やめて」アサコは叫ぶ、ハルヒコのにおいが水に消える、プラナリアはきれいな水にしか住めない、シャワーの水はきたない、アサコはプラナリア妄想迷宮へと没入、反転、ブラックアウト、アサコはプラナリア的に死ぬ。

「アサコ」休日の公園で、ハルヒコはアサコに告げる。「好きだ」アサコは黙るが、しっかりとした声で返す。「好きだよ、わたしも」ふたりは無言で手をつなぐ、帰るのはホーム、ホーム、ふたりのホーム。

 アサコ・ボーイッシュはシャワー片手に沈黙している、気がつけば自分の意識もプラナリア的に滅びようとしている、シャワーはプラナリア化し、絶望しているすべてのアサコを殺そうとしていた、アサコ・ボーイッシュが倒れる。
 ひとり、玄関で立ちすくんでいたアサコ・バートルビーが、のっそりと動き始める。キッチンの片隅にうずくまり、アサコ・バートルビーはアサコに戻る、アサコでない方が好ましかったアサコ・バートルビーは。
「ハルヒコ」
 ハルヒコと、アサコの頭、プラナリア的に増殖、鳥類的に繁殖していったふたつのペア、プラナリアと鳥のつがいが、地図する。アサコ・バートルビー、いやアサコは、月の見えるキッチンで、頭の中のかつてのアサコとアサコ・ボーイッシュ、そのふたりを構成していたプラナリアが次々と死んでいくのを見ている。シャワーは、アサコには止められない。
「好きだよ」
 無数のハルヒコが、アサコの頭の中に浸透しているのが見えた。月の呼吸に合わせて、アサコもゆっくりと微睡み始める。アサコは夢見る。
 夢のなかでは、プラナリアと鳥が手をつなぎ、アサコとハルヒコので重ね合わせた地図が、ゆっくりと更新されていく。アサコは、ハゲタカのハルヒコの荒野で、ペンギンのハルヒコの氷原で、アサコとハルヒコが、手をつなぎながらホームに帰っていくのを見ている。アサコはその情景を幸福だったと考える。旧アサコ、アサコ・ボーイッシュ、アサコ・バートルビーすなわち現アサコ。アサコの前には、アサコが現れ過ぎたのだ。すべてのアサコの頭に、ハルヒコが居る。
 アサコはアサコをやめられるからこそ、アサコだった。

「ハルヒコ」アサコは月のなみだに目をやりながら、「夏の夜は涼しいとすばらしい」「月がきれいだ。夜はすばらしい。ほら、詩ができた」アサコは幸福に抗議、「ハルヒコは詩をなめてる」「詩を読める人間なんて居ないさ」「居るよ。一杯居るよ。詩を読むのは簡単だ、読めばいいんだから」「屁理屈め」ふたりして笑う、アサコとハルヒコ。「ふたりってさ」アサコは夜を、ハルヒコは夜を覗き込むアサコを見続けている、「ふたりから出来てるよね」ハルヒコは笑う。アサコは笑う。
 ふたりは笑う。

 次の太陽が昇ってきても、アパートにはまだハルヒコのにおいが残っていた。ハルヒコの布団をアサコは持ち出して、そのにおいを嗅ぐ。あせのにおい、からだのにおい、はるひこのにおい。シャワーの音が、まだ聞こえてくる。アサコは濡れながらシャワーを消す。きれいなみず。窓を開ける。きれいなひかり。
 アサコは、引っ越しの準備をしようと、考える。整理から、始めよう。ふとアサコは窓の外に目をやる。うつくしい夏鳥が、ひかりの方向へ渡っているのが見える。夏鳥の地図が広がっていく。プラナリアは、鳥の手に。
 プラナリアは地図する。

(end)