そして天上電車に見捨てられ ( No.8 ) |
- 日時: 2008/04/30 23:56
- 名前: 4
- 第一回中編コンテスト:「そして天上電車に見捨てられ」
新発売のペットボトル売り切れ、台所マットやげたばこの汚れ、社長の葉巻、ダイヤの乱れ、デスクトップの工夫に忙しい同僚、財布には十二円、慰安旅行、残業、日曜になれば日がな聞こえてくる子供の声、中華鍋にこびりついた油、トーストの底にたまっているパンくず、アダルトサイト、公営放送のドキュメント番組、壁紙の張り替え、いつの間にか増えているブランドもののティーカップ、やたらと目が大きくて気持ち悪いキャラクターグッズ、特撮番組、冬が終ったのにまだ片づけていない灯油ストーブ、風呂場の切れた電球、花見、二日酔い、キシリトール。 ということで、死ぬしかないようだった。
死ぬからにしては手段を考えなければならなかったのだが、そんなものはとっくに決まっている。サラリーマンらしく電車に轢かれるのが一番だ。それでもやはり他人の意見というものは仰ぎたくて(何せ、一大行事である)デスク隣で化粧大好きの丘田さんに聞いてみると、 「どうかしら、でも自殺するなら心中とかがいいわ」 などと質問への答えもなく、荒唐無稽におっしゃられてしまい、吹き出すのを我慢しようとしたが出来ず、丘田さんに物凄く嫌な目でじろりと睨みつけられたが、悲しいことに、たぶん丘田さんの親御さんはひな人形をちゃんと片づけてくれなかったのだ。 「自殺なんてもの、する方がおかしいのよ、頭おかしい」 丘田さんはポッキー(いちご味、あのケバいの)つまみつまみ、仕事に向かう。苺のチョコレートがぽてぽてキーボードに落ちていておいおいそれはまずいだろうと思いはしたがあえて突っ込まない。紳士だから。やたらと誇張されたマニキュアも、デスクトップ一面がくまのぬいぐるみで埋め尽くされてるのも、紳士だし、突っ込みません。 「でもね、何かこう、色んなもの見てると、死ななきゃならないみたいなんだよねー」 「それ軽い鬱病じゃない」 「鬱じゃあないでしょ。何かこう、飛び降りろー、って言われてるんです」 「頭おかしい」 ろくな返答を期待するのも無駄だろうと思って、自分も仕事に向かう。デスクトップのビーチが目に眩しい。死ぬならこんなところで死にたいと思う。昼休みになってから課長に聞いてみると、 「やっぱり睡眠薬か服毒じゃねーかな」 などと煙草片手に言われたので、 「最近の睡眠薬って中々死ねないらしいですし、服毒って一般人手に入れられないじゃないですか」 と反論すると、何だよお前、とにこにこしながら(顔の下で何を思っているかは解らない)腹のあたりを突っついてくる。課長は軽度の変態である。まあ、うん。つまりはね。妻子持ちであるが、そのことに気付いたのはその歳になってかららしい。遅い。 「じゃあ硫化水素自殺なんてどうだ。今流行りだし」 「そんなの絶対駄目です。他人に迷惑がかかります」 「死んだらどっちでもいいだろ」 「駄目です。二次災害とか起きちゃったらマジやべーです。ネットの掲示板とかで叩かれ放題だし、サラリーマン硫化水素自殺……原因は仕事でのストレスかってワールドビジネスサテライトあたりでやられちゃって、報道ステーションとかであの鬱陶しいコメンテーター? キャスター? どっちか解りませんけど、あの一々鼻につく彼に死ぬのは個人の勝手なのかもしれませんが、巻き込まれてしまった被害者の皆さんは本当に不幸だったと思います、言ってしまえば死んだ後は何もわからないわけですが、ご遺族の方の心の傷みを考えると胸が痛むばかりです、とか、適当に月並みなこと言われちゃって、それから何より家族とご近所さまが危ないじゃないですか、自殺っていうかもうこれはテロですよ」 「世の中死ぬのも大変だな」 熱弁をその一言で片づけ、課長は尻にまで手を回そうとする。払う。それは色んな意味でやめてください。ダークサイドのにおいがします。 「つーか、電車に轢かれても同じだろ。結構なダイヤの乱れとか引き起こしちゃうし」 なんてこった。言われてようやく気付いて呆然としたわけだが、その隙にも課長はまた手を伸ばしてきて、しかもこの結構ぶっ飛んでる様子を新入社員でまんが眼鏡とご評判のエミちゃんが「二人の関係って……そんなに熱いものだったんだっ」などと満面の笑みでぽろっと言ってくださってしまい、だがされるがままでいてはいけない、とりあえず課長の手を思いきり曲げておいた。 昼休みの後、課長はちょっとめげていた。かわいそうだが致し方ない。
どうやら最近は死ぬのも大変、らしい。まず死体処理がめんどうくさい。となれば崖から飛び降り自殺、そして海面、とかあたりがいいとは思うが、まず移動費がかかる。残される妻と子のためにお金を極力かけないべきだ。そして死ぬならば定期解約の利くうちじゃないといけない。時間は待っていても飛んでいく。 歩きながらずっと太陽を見ていると、ビル街なり何なりが紫に変色していって、昔、とてもとても昔見た、ジャガイモにヨウ素液の実験を思い出した。そうすると横切る人横切られる人止まっている人車の人みんなジャガイモに見えて、自分もジャガイモになってごろごろごろごろ転がっているような気がした。 でも現実はジャガイモではなく、電車にはねられても「もってえねえ、どうせだし持ってかえって今日の晩ご飯にすっべ」などと言って片づけてくれる田舎のおじちゃんが居るわけでもなく、「人身事故のため現在全線停止させていただいております」というアナウンスに何か嫌なにおいのするおじちゃん方がみっともないヒステリーを起こして駅員の美人さんに詰め寄るわけだ。それは、よくない。駅員さんが困るような自殺のやり方をやってはいけない。だが、サラリーマンだから、仕方ない。 晩ご飯はポンカレーだった。「これはない」と妻に言うと、「なんか、むかむかして、しんどいのー」とソファに背を向けたままで返され、「なあ、今日の晩ご飯どう思う」と末っ子(幼稚園)に聞くと「プリキュアカレーおいしかった」と絵本に目をやったまま言われ、第二子(小学五年生)に聞くと「普段の料理よりマシ」とゲームに目をやったまま(バイオバザードって小学五年生がやっていいゲームだっけ)言われ、第一子(高校一年生)「あたし部活の帰りに皆でご飯食べてきたからいらないよ」と言われ、「じゃあ何食べてきたんだ」と言うと「千円サンドイッチ」と携帯いじりながら返され、お前どんだけリッチなんだよこのプチ令嬢とか思いつつももう我慢出来なくなったのでコンビニに走っておにぎりを買い、夜空の下食べる無闇に米粒がきれいで何か恐ろしいおにぎりは全然ロマンチックじゃないしむしろホームレスチックだということに気付き、切なさのあまり家に帰ってすぐにふて寝した。その次の朝、遅刻した。課長に怒られた。それから誘われた。 「罰としてちょっと買い物につきあえ」 「絶対に嫌です」 エミちゃんの歓声が聞こえた。やはり、死ぬしかない。だからといって担当の仕事を終わらせないわけにもいかないので、労働万歳、ちゃんと働くのです。
帰り道の電車で、偶然丘田さんと一緒になった。あれ、同じ路線だったんだ、って言おうとすると、丘田さんは般若の顔になって、 「まだ死んでないんですか」 といきなり、「いやどう見ても死んでないでしょ。ていうか、今日隣に居たじゃないずっと」と来て、「関心ないです」「それ同僚に対する態度としてまずくない」「私年上ですから」「訳わかんねーです」「三十路の女はあんたみたいな妻子持ちには目つけないんです」と来て周囲からくすくす笑い、しかし丘田さんは豪奢なマニキュアのチェックをしながら堂々たるさま、顔真っ赤にするのはひとり。 「丘田さんは死んだりしようとか思わないんだ」試しに聞いてみると、「頭おかしいです」短く返された。丘田さんの化粧ポーチには悪趣味で俗っぽいけど何かかわいらしい天使が書かれている。丘田さんの最初で最高で最後の恋人だった人の贈り物だったという。そんな丘田さんは中絶も経験していて、そのときの感触を「自分が大根になってしゃりしゃりすられて、すりへっていく感覚」と言っていて、もっとかわいそうなことに、その中絶の原因が見知らぬ男からの暴行だったという。 「丘田さんって、結構色々大変だったよね」脈絡も無く言うと、「そうでもないわよ、それなりに幸せに生きてる」「そうだっけ」「そうよ」あっさりと、「死ぬ気なんて毛頭無いわ。悪いけど私、まだ結婚出来る年齢だし。だから、死にません」と言われて、そのとき丘田さんの桃色マニキュアが、夕陽にかっと照り出されて、金閣寺みたいにばかばかしいものをちょっと思わされたけれど、ポーチの天使君は本物の天使さまみたいに見えて、ああ、丘田さんが幸せになればいいなあ、とささやかに願った。「そろそろ降りるわ」と丘田さんが言って、夕暮れの向う側にある駅へとぽつんと人込みに紛れて消えていったとき、その後姿にちょっと憧れた。
家に帰ると、どうも妻の具合がおかしい。なんか凄くだるい頭いたいー、と繰り返すのだ。だからといっても死に体というわけでもなく、本人も「病院怖い」などと喚いているし、ポンカレーにスプーン突っ込みながら背中をゆっくりさすっていった。末っ子長男は何も言わずに早々に自分たちの領分へ帰っていったが、長女だけは女の勘なのか、「やっぱりちゃんと見てもらったほうがいいんじゃない」と一言ぽつんとアドバイスしていってくれた。妻の顔は青ざめたり汗をぶわっと出したりしてとても心配にさせられたので、長い夜のあいだ、ずっと妻の隣に居た。アイス食べたいよ、なんて熱の子供みたいに言われて、コンビニまで走った。走って食べさせたらまた食べたいというので、また走った。たくさん、往復した。 翌朝、妻のことは充分気にかかったけれど、それでも仕事に行かないわけにはいかない。「私今日学校休むよ」と長女が言う。妻はうーんうーんと朝から吐いたり頭痛を催したり何なりと結構ひどく、息子二人のトーストもろくに焼けないような様だった(で、父がゆで卵を作ると半熟じゃないといって怒るのはどうなんだ)。これは普通じゃない、と思いながらも、病院やだあ、ひとりでねたいよーとごね続けるので、長女共々あきらめ、それぞれの行くべきところに行った。次男を幼稚園に連れていく役目は長女が請負ってくれた。姉と弟が手をつなぐところをみていると、二人が自分の子供のように思われなくて、なんだかとても懐かしくて愛おしい、でもどこかの他人みたいだった。
電車に乗っていて、眠ってしまった。そんでもって、夢を見た。 死神くん(いぬ)と、天使くん(ねこ)である。岡田さんのポーチみたいな天使じゃなくてちょっとがっかりはしたけれど、とにかくひとつの三角関係が出来たのだ。死神くんがこっちに向けて言う。「とっとと死になさい」ついでに吠える。天使くんも言う。「まだまだ生きなさい」しかし天使くんは死神くんに口をふさがれる。 どうやら、三角関係ではないらしい。死神くんの方が、天使くんよりは強いらしい。そこは電車だったけれど、床は透明で、軌道通りに空を飛んでいるような感触だった。死神くんがにこにこして見てくる。天使くんもあきらめたらしく、どこかに消えてしまった。三角関係どころか、直線関係だ。 低過ぎる空には地獄に向かっての脱出口がたくさんあった。カラフルな光で地獄は乱痴気騒ぎだったし、天国に行くことは出来ない。だって、電車には天井がある。 「で、どうすんよ」いきなりラフな口調である。「死ぬの、死なないの」「いや、まーとりあえず定期解約出来なくなるまでに死にたいんですけど」「現金だな」「仕方ないじゃないですか、労働者なんですから」「何て、暗黒時代だ」 死神くんはそう言うが、線路の下からしてもう既に暗黒なんだから、そりゃ時代は暗黒に決まっている。地面が暗黒、なら時代は暗黒である。 「暗黒ばんざい」礼賛してみた。「暗黒ばんざーい。死神ばんざーい」犬が踊る。「暗黒ばんざーい。天使ばんざーい」猫もいつの間にか帰ってきて踊り出す。「神さまばんざーい」「閻魔さまばんざーい」「天国ばんざーい」「地獄ばんざーい」電車はいつの間にか、空よりも高く、大地よりも低い、どこか彼方を走っていた。 神さまも閻魔さまも、天使も死神も、みんなして踊っていた。自分もどうやら、にんげんの代表として踊りに加えてもらえるようだった。ダンスは、虫がさなぎからのっそりと死にながら目覚めるようでもあったし、入れ歯の洗浄みたいでもあった。とにかく、地獄から天国まで、みんなはゆっくりと一つの中に混ざっていった。 「寝てちゃ駄目ですよー」車掌さんがそう言って起こしてくれなかったら、きっと天国と地獄、その狭間として生まれたなにかねばねばしたもののなかに、呑み込まれてしまっていただろう。そこはきっと、人の踏み入れてはいけない場所だ。
昼休みどき、屋上で偶然出会ったエミちゃんにその話をすると、いきなり目を輝かされ、 「ねこさんは男の人だったりするんですか」 と、物凄く熱心に聞かれるのだ。え、なんで男限定なの。いやいや、天使は男だと決まってるもんなんです、相場は。いや、ていうかさ、猫なんだけど。ネコミミ? いや、違う。ていうか、君は何を想像してるの。 「にゃんにゃん」 とりあえず、エミちゃんの頭を叩いておいた。それなりに、強く。 「君、そういう趣味の人なのね」 「ていうか、これだけで解るあなたも中々マズイと思うんですけど」 「いやまあ、サブカルもちょっとぐらいは学ばないとな、と思って……ていうか、隠す気ないのね」 「わたし、厚顔無恥ですから」「それ、悪い意味だよ」「知ってます」 屋上から見下げる街は、エミちゃんがそういう趣味の人であっても(女性がみんなそういうのに惹かれるのかどうかは知らないが)一世代前のシューティングの画面みたいで、ここから飛び降りたら本当に猫の天使が迎えに来てくれそうだった。しかし、飛び降りは、死体処理に金がかかる。やめるべきである。 「そういうのってさ、なんか、気恥ずかしかったりしない。つきあったりした男の人に嫌がられたりしなかった」 「いえ、そもそもつき合ったりなんてしてないです。幻滅するだけなんじゃないかなー、とか思って」 「わー、またすっごく濃いところへ来ちゃったねー」「照れます」「うん、褒めてるよ。安心していい」「えへへ」 エミちゃんは多分、かばんにアニメキャラのキーホルダーとか付けて大学に行ってしまっていた子なんだろう。微妙どころか、結構にずれている子である。もしかすると、周囲の視線にも気付かなかったのかもしれない。意外にも、孤高の存在っぽい。 「エミちゃんはさ、死のうとか思わなかった」「いえいえ、思ったことなんてないです」「そっかー。いいねー」「死にたいんですか」「うん、死にたい」「それまたどーしてですか」 「やー、何かよく解らないんだけど、死にたくなったんだよね。なんかこう、自分の中から、死、がもきゃもきゃもきゃーって出てくるみたいなものなんだ。あー何かとっとと死ななきゃいけないねー、とか思いつつ、何となく生きてて、明日か明後日ぐらいにリミットが来てくれたらいいな、とか願ってるの。なんか、大変だ」 「なんか、大変そうですね」「うん、すごく大変だ」 神さまのカメラが、次第にピントをずらしていくような気がした。閻魔さまの指が、眼下の人々を、こっそりとこね回している。天使さまより、死神の方が強いのは当たり前なのだ。死ぬことと、生きることは、同じじゃない。生きることは、あくまで中のところをほじくってるだけなんだから。 「死ぬの、怖くないですか」「よく、わかんない。なんか、死ななきゃいけないんだ」「私は、怖いです」「どして」「買いたい漫画があるから」 笑った。エミちゃんも笑った。「そういうの、いいね」そう言えば、困惑顔をされるのだけど。「そういうの、すごくいい」漫画のために、死にたくない、と思えるのは、とても素敵なことだ。「すごく、いいや。そういう人に、なりたいね」 理由があって、死にたいとか、生きたいとか、そういう風になりたい。贅沢な、やり方だと思う。
その日は、妻の体調不良を課長に報告し、定刻よりも少し早めに帰った。夕暮れの線路というやつは、本当に人間の魂をぷるぷる吸い込んでしまいそうで、とても怖い。けれど、その線路の上を走る電車に乗って、家まで帰る。たぶん今日も、同じ錆色の線路が、ひとりの人間を呑み込んで、猫と犬のあの列車に連れ込んでしまったんだろう。そのことを考えると、少し、心が痛んだ。
「お母さんさ」帰宅するなり、おかえりも無しに、長女がそう言った。いつもよりは、当然早い。「つわりじゃないかな、つわり」「は」思わず聞き返す。「つわりだってば」「はー」「そう、つわり。まあ何ていうの、たくましいね。神様からのプレゼントってやつですか」「あー、うん、はい」「や、とうとう頭飛んだの」「いや、そうじゃなくて」 リビングに入ると、妻はソファの上でうーだー唸っている。本当に、つわりかもしれない。つわり。つわり、と。しかし、このところ、妻と一緒に寝たことは無かったのだ。それは無いだろ、おいおい、マジですか。 まさか自分、コキュられちゃいましたか。 おとうとおとうとー、と息子たちははしゃぎ回る。もしそうだったら良かったね、と娘も少し嬉しそうな顔で言う。もうひとりぐらい、弟が居たら、私も寂しくないかな、と付け加える。 呆然とさせられつつも、とりあえず、食卓のカレーを食べた。「おいしいかな」長女がはんなりとお聞きになる。呆然としていても、カレーはうまい。「うん、おいしい」息子達も大満足のご様子である。だって、本職主婦よりはるかに上手。 その本職さんはといえば、どこの馬骨さんからか、タネを植え付けられてしまった揚句、そこのソファで満身創痍である。 妊娠検査薬を使うというのもアリだったろうが、その晩、お苦しみになられている彼女だけを寝かさないでおいた。お説教ではない。まろやかかつ不穏な空気に訝しむ長女を何とか寝させ、ソファに座って聞いてみる。「で、ホントに妊娠したの」「うー」「うーじゃないの、答えるの」「いや、たぶん、想像……」「いや、どう見ても想像じゃないでしょ」「うー」「だからうーじゃないって」 ふう、と息を吐いた。何というか、自分の家も地球の上にあるんだなあ、と実感した。コウノトリも天使も、間男に対してファンファーレを送っている。ご出産おめでとおございまあす、と叫ぶ脳内天使軍団をとりあえず脇に寄せて、聞く。 「まあ、怒らないから言って。ホントに想像かもしれないけど、とりあえずやったことは確かなんだから。で、誰と」 「わかんない」 「いや、何でわかんないの」 「……色んな人と、最近……」 硬直した。馬骨どころでない。馬骨の山である。コキュられたなんてものじゃない。溜息が出た。「いや、別に怒らないよ。怒らないけどね」妻は、何ていうか、申し訳なさをとりあえず顔に出してはいる。「まー、君ならやりかねないなあ、とか、つーか。元気だねー」「私、そんなに駄目な女なんだ」「うん」即答。「あのね、私、最近あなたが構ってくれなくて寂しかったの」「さよか」「これからは、もっと帰ってきてくれる」「たぶん無理」「あの……赤ちゃん、産みたいの……」「いいよ。許す」「ありがとう……」涙声で言われても。 妊娠したにもかかわらず、その晩も色々と迫られてしまった。明日仕事早いのに、とか言いながら乗ってしまうのもどうなんだ。そのうち、聖人になれるだろうなあ、とは思った。忍耐力なら、負けません。にっぽんの労働者ですから。
「いや、それはマズイだろ」 仕事帰り、たまたま課長と出会ったわけで、ごみごみした路地裏等歩きながら相談してみると、途端に一蹴された。まじーですか。マズイ。コキュで片づけられる話じゃない。えー。微妙なところでしょー。 「ていうか、男のプライド的にマズイだろ、それ」 「いや、特に無いです、そういうの」 「将来父親がお前じゃないって知ったら、息子はどう思うよ」 「大丈夫じゃないですかね。うちの妻の息子だから、たぶん大丈夫です」 「お前、駄目だな」「あ、はい。そう思います」「思ったら負けだろ、おい」 課長の煙草(この世で最も憎むべき悪徳である)が、仄暗い空までぼんやりと届いていく。今ごろあの空では、妻と見知らぬ男達の子供の聖誕を祝っていることだろう。何にせよ、子供が産まれるのは、いいことだと思う。 「本当に、何も感じないんだな、お前」 「まあ、中絶とか、させたくないですからね。コキュですから、基本優しくです」 「いや、優しくとは言わんだろう。単なる怠慢じゃないのか、それは」 「かもしれませんね」 「お前が冷た過ぎるのか、それとも楽天家過ぎるのか。どっちもどっちか」 冷たいのかもしれない、とは思う。やっぱり世間では、それは汚い女のすることだーとか言って、罵ってやるべきなのかもしれない。妻としても、そっちの方が気が楽だったのかもしれない。ただ、やっぱり子供を殺してやるわけにはいかないのだ。せっかく産まれた子供、何だかんだ言って愛する妻が産む子を、殺してやるわけにはいかない、と思う。ひとつの、使命だ。まあ、ヘタレなんだけど。 「課長は、こういうとき、どうします」「そりゃ、切れるだろ、普通」「そっちの人でも、ですか」「当たり前だろ、そりゃ。ま、俺はどっちも好きだから」「あれ、そうだったんだ」「そうそう。片側じゃ勿体ないだけ」「うわ、濃ゆい物言いですね」二人して笑った。行き着く先は飲み屋。オーダー、適当なつまみとビール二杯。 「何つーか、やっぱり産まれたことは祝ってやるべきじゃないかな、って思うんですね。それは、なんか、奪っちゃだめだなって」 酒の勢いで、本心を言ってみた。すると、課長はふう、と酒とたばこの臭いで。 「それが偉いかどうかは解らん。まあ、俺も子持ちだが、そいつらが自分の息子じやないと知ったとき、どういう気持ちになるかは正直言って解らん。だが、少なくともそいつらを、たとえば勘当するとか、そういう気持ちにはならんだろう」 「そういうこと、なんですかね」「なんだろう」 「今でも、死ななきゃならんか」「や、どうもそうっぽいです」まだ、自分のなかに、犬猫軍団がいるわけだ。「後二十年ぐらいは死ぬなよ。流石のお前の奥さんだって、金をせびるまでは出来ないだろうから」その顔は結構真剣で、格好良かった。こういう顔を人生一度でいいからやってみたいもんだな、と思った。 「子供がいる、ってどういうことでしょう」「最悪だ」 二人して笑った。 「自分の性癖に気付いたとき、どんな気分でした」「世の中が、二五度ダークサイドから離れてった。そんなところだ」 世の中の人々が、皆二五度ずれていてくれたら、いつだって上機嫌になれるだろう。もしかするとそれは、破滅のやわらかな種子が芽吹いている証拠かもしれないけれど。 「ま、何だ。アレだよ。アレ」「アレじゃわかんねーです」「正直になれ、って」 「いや、それどういう意味ですか」「ま、今は別に誘う気もないから」 あ、この人はやっぱり大人なんだな、と思った。課長は公にカミングアウトをしたわけではないし、皆知っているけれどそのことには触れない。そういうのを偽りだと言うのかもしれない。悪酔いしてるだけ、なのかもしれない。 それでも、そういうことは、とても大切なのだ。 「や、そろそろ帰りましょうか」「だな」 程よく酔ったぐらいで、酒を止め、二人して帰る。女なんて馬鹿ばっかだ、と課長が叫ぶ。妻の名前を卑語っぽくアレンジして自分も叫んだ。どうやら、程よく、という具合では無かったらしい。世の中の男は、こういう具合に大変なのだ。しかし、見上げたところの星というやつは、今日もちゃんと輝いていて、酔っぱらっている頭であっても、ちゃんと祝ってやらなきゃな、って思わされたのだ。
次の日の晩、妻を寝室にねじこませてから、長女にこの話をした。長女は別段動揺する様子もなく、それこそ聖人のようで、「びっくりしないの」ときくと、「よくありすぎる話」と返された。「私生児、っていうの。よくいるよ。うん。もしかすると、この一家の長女だって、そうかもしれないし」絶句した。本当にありそうなことを言うの、やめてください。 その晩も妻に誘われた。とりあえず、枕で頭を叩いておいた。枕が武器になることを考えた一番最初のやつはたぶん、ヘタレで優しくて物言いも丁寧なコキュ野郎である。永遠の夫、ばんざいである。 ばんざい三唱。ばんざい。ばんざい。ばんざーい。誕生日パーティの準備を延々続けている脳内天使どもは放置して、とりあえず財布たちにばんざいをさせておいた。財布君も、小銭をたぷたぷに食わされた揚句、ぶうらぶうら揺らされることもこれからは無いだろう。たぶん、空腹過ぎて(ていうかひとつも食べるものなしで)、餓死してしまうことだろう。労働者ばんざーい。
翌朝、この様々な意味でおめでたい時期だというに(妊娠検査薬のブルーを見ているうちに、あー、オレンジマーマレードが食べたいな、と思わされるぐらい、おめでたいのである)またあの電車がやって来た。 「いやいや、来るなよ。このタイミングで来るなよ。だめでしょ、来ちゃ」 いぬとねこはすっかり中性的ななにか、仮名どぐきゃっとさんになってしまっていた(我ながら色々と絶妙なネーミングセンスである)。電車は本格的に天国とか地獄とかそういうベクトルではなく、はざま、からっぽのお空に向かっていこうとしているのだった。そして、記念すべき最初の乗車客として選ばれたわけである。はい、ぱちぱち。 「ややや、何で来てないんだよ、とっとと来いっつーの」 「いやね、だからね、無理なのよ今。赤ちゃん産まれるらしいから、当分は死ぬわけにもいかないんだよねえ」 「それ、お前の子じゃねーじゃん」 「だからさ、あーもう、理屈っぽくて嫌だなあ、そりゃあ血は繋がってないでしょうが、なんかね、使命なのよ、使命。神にえらばれましたー! みたいな」 叫ぶとき、すごく恥ずかしかったのに、どぐきゃっとさんは冷静にも、 「今神様居ないから」 一蹴してくださった。「いやいや待てよ、何で居ないんだよ」「前乗ったとき思い出せよ、天国と地獄が和平協定を結んだの。ソウルラインSDRあたりがね、あ、ここ俺の故郷なんですけどね、あ、いやいや、相棒の方の故郷はもっと上のあたりですよ、何せ天国ですからね、まあまあそれはともかく、いいとこですよ、畑のかぼちゃの美味いことこの上無い、一回来てみても損はないと思いますよ、そうそうそれでね、そこが国境線になったわけで、長きに渡る天国地獄ウォーズが見事に終結したわけです。これからは魂は平等に真中のところに置かれるわけです」 天国地獄ウォーズとかいう三流ボードゲームみたいなネーミングはどうにかならんのか、と思わせられながら、ふんふんと話を聞く。天国地獄ウォーズの始まり。遺族達の声。今はもう蘇らぬ美しき都の日々。少年兵達の祈り。ストリートチャイルド。難民キャンプへの攻撃。骸たち。 「なんてこった!」思わず叫ばされていた。「今すぐ千円、募金します」感動のあまり胸が痛み過ぎ、もしかして結核かなあと思わされる程だった。「や、お前さんみたいな奴が居るなんて、下界も捨てたもんじゃないねえ」 なみだぽろぽろ。遠き天上で苦しむ子供達。その情景が、ありありと思い浮かべられた。今すぐ天上界ボランティアに加入しなければならない。そして子供達を救わなければならないのだ。と、思った矢先である。 「まあ、そんな訳だから、おまえ、両地域の監視役として、選ばれました」 どぐきゃっと君は、少し頬を赤らめて、言いにくそうに、でもしっかりと。 「おめでとう……何ていうのかな、お前だったら、悪かーねーと思うぜっ……」 そう言った途端に、空から天使、地から悪魔が、といった具合に、たくさんの拍手が降ってきた。「ありがとう、みんな、ありがとう」思わず叫んでいた。「争いはよくねーです」本当にそう思った。今ある命、罪無き命がどうして奪われていいものか。「ありがとうございます、皆様。力の足りぬこともこれからしばしばあるでしょうし、皆様にご迷惑をかけるのもそう少なくはないでしょう。しかし、天上界から選ばれた人間として、その職務、全力で果たしたいと思います! ありがとうございます! 最後に、終戦ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!」 停戦ばんざーい! 和平ばんざーい! 労働者ばんざーい! 天上ばんざーい! ああ、このまま天上にも昇れる、最高の思いだった。だが。気付いた。 「あ、ごめんなさい。もうすぐ、赤ちゃんが産まれるんで、しばらく待っていただけますか。その、二十年か三十年ぐらい、待っていただければ幸いかなあ、なんて」 途端に、天使たちは光の槍(スターウォーズのビームセイバー? ガンダムのビームジャベリン? そんなのである)をこちらに向け、黙示録ビームだの、神様ジャッジメントだの(神様ってもう居ないんじゃなかったっけ)降らしてくるし、悪魔もやっぱりユダアタック(それって悪魔なのか)だの、ディアブロバーストだの、荒野フィールドにチェンジだの、とにかく、息も絶え絶え、這うようにして、夢から醒めたのだった。とりあえず、週末にでも、病院行こうかな、と思った。
「残業」そして出社するなり、岡田さんは宣言する。「確定」「データ、吹っ飛んじゃったんですよね」エミちゃん、楽しそうである。そういえば、もうすぐ夏が近いんでしたね。頑張ってください。草葉の陰から応援してます。「今忙しいんだけどなー」爪にトーンがくっついてますよ。ばれないうちに洗ってくださいね。 「まあ、そういうわけだ」とどめは、ちゃんと課長から。「ま、徹夜ギリギリってことで。バックアップからの復旧とは言え、結構大変だ。付き合ってくれるな。明日は、日曜だな、そういえば」意味するところはひとつである。 「了解です」平静さを失ってはならんのだ。「それぐらい当然です」 だって、労働者ですから。 さて、仕事は、本当に過酷だった。たぶん、天国と地獄の争いをひとりで止めるよりも大変だったろう。課が一体になって働いた、と言える。岡田さんはさりげなく化粧室で夜明けに備えてもう一度化粧をしていたし、エミちゃんのパソコンからは粘着性があるというか、常人の言葉では表現出来ないような世界が展開されていた。さあ最後の頼みの綱、課長であるが、「飽きた」と言うなり、「二時間寝かせろ」と来た。何だその、駄目っぷりは。まあそんな具合で、ぐーたらぐーたらやっていても、時間は過ぎる。つまりは、仕事は終わる。今は亡き神様に感謝してやりたい思いだった。 「よし」いかにもやりました、なムードで、課長。「やりましたね、課長っ」岡田さんも、徹夜の毒に当てられたのか、すっかりキャラが変っている。「友情・努力・恋愛なのですっ」エミちゃんは変わらない。「じゃ、帰りましょうか」このまま延々と引っ張られ続けそうなのが結構本気で恐ろしくなり、行列の先頭に立ち、駅まで引っ張る。もう、帰らなくてはならない。しんどいし。 夜明けのブルー、というか、毒気満載の青に脳味噌をひたされながら、四人躁状態で喋りまくっていた。岡田さんの化粧がすっかり崩れ、チープな天使はもはや百円均一キーホルダーなみのものに見えた。もうすぐ、電車が来る。何というか、人生の半分ぐらいは終わったような心持ちだった。労働者。 アナウンスが入った。もう、まもなくだ。向こうからは、警笛が見えた。 そしてそのとき、気付くべきだったのだ。天使と悪魔は電車に乗ってやってくる。自分は行列の先頭。誰かが、押した。人の手じゃなかった。言うなれば、太陽の死体みたいな、そんな感触がした。スローモーション、とか、走馬灯とか、限りなくくだらないデザインセンスの車体に、どぐきゃっとが乗っているのが見えた。ぶうううううううん。ぶうううううん。それはばんざいのようにも聞こえたし、天上界の幸福を乱す者にばちあれーとか、おじさんの罵詈雑言っぽくも聞こえた。 あ、死ぬんだ。死ぬんだ、と思った。いやいや、これは死ぬ。 「勝ったな」 とうとう現実にまでやって来て、どぐきゃっとは言った。ということで、負けてしまった労働者は、敗者のルールに従って、きっちり死んでしまったのです。
「って、死ぬなよ、死んじゃ、駄目だろ」体よく、誰かが声をかけてくれた。課長でも、岡田さんでも、エリちゃんでもない。どぐきゃっとでもない。天使でも悪魔でもない。辺り一面は暗闇で、何があるなんて全く解らないけれど、とにかく、とてもとても無愛想で鬱陶しく親の顔を見たくなるような奴が居るような気がした。「養育費払えよ、ちゃんと。保険じゃまかないきれないんだからな、しっかりしてくれよ、全く」 「おい、オイディプス」「何その名前」「決定だ、お前の名前はオイディプス。それはもう、恥に満ちた名前になるな。オーギュストとかと同レベルだ」「うわ、何こいつ。うぜえ」「どーもどーも、時代に後れた父親でーす」「おやじうぜえ」「まだ若いわ」「どう考えても更年期越えてるだろお前」「おっさんてゆーな」「はいはい。まあ、そんなわけで、とっとと生き返ってね、どうせ死ぬわけないとかたかくくってたんでしょ、いやいいご身分ですね、はいそれでは臨死体験しゅうりょー、さよならさよならお父様」 暗闇が突然、色の海になった。かき混ぜられる。とてもとても低いどこか、高いどこかから、連れ戻される。臨死体験、という言葉が、ただただ残っていた。
お目覚めミュージックに念仏、というのだけは本当にやめてほしい。後浮気女に起こされるのはもっとやめてほしい。それから、見知らぬ男居過ぎ。誰こいつら。 「あなた!」連れ戻したのがこいつか、と悪態をつきたくなった。途端に念仏ストップ。「心配してたのよ、もう、すごく心配させられてたの」気がつけば、そこは柩の中である。エリちゃんも課長も岡田さんも長女も長男次男も電車の車掌も皆して涙を流していた。 「え、何なのこれ」「いえ、てっきり死んだかと思って……」「死んでねーです、ただ線路に落ちただけですよ」 「だけど!」課長が叫んだ。「おまえは確かに電車にひかれたぞ!」いや、そんなに殺したいんですか、ただの労働者を。「俺は見た! とっさに手を掴もうとしたんだが、間に合わなくてな……ちくしょう……」また泣き出した。やめろ。 うわあん、うわあん、という皆の声が、まるでばんざい、ばんざいに聞こえているみたいで、ここがどこなのか解らなくなった。けれど、まあそこは天上界行きの電車ではないらしい。いつのまにか、身体から死が少しだけ、離れていた。 「まだ、信じられない、あなたが生きていただなんて」そして、奴は言う。「そんなあなたに、朗報があるの。天使様からの贈り物よ、もしかすると悪魔からかもしれないけれど」とてもとても嫌な予感がした。「あのね、あなた、とてもとても長い間眠ってたのよ。皆で世話に困って、こうして焼こうとしてたの」それはまあ、環境にも優しいし、経済的なことですね。このギャラリーはあなたと愛を通い合わせてる方々なのですね。ようやく解りました。「どんぐらい経ったの」「一年」妻はにこにこしながら言った。働け、このクズ、と長女の叫び声が聞こえた。有給休暇使い過ぎだ、と課長が言った。みんな、優しいです。 「はい、あなたへのプレゼント」妻が柩の上にかざしたのは、丸っこく、ふてぶてしく、子供のくせに何だか王者のようなチープな風格を持っている奴だった。「名前、何にする……決めてほしいの。あら、あなたに、笑ってる」自身の勝利を確信しているような、そんな笑いを奴は見せた。「決めた」柩から、起き上がる。途端に、葬儀会場、つまりはイースター会場が静寂に包まれたのである。「おまえの名前は」そいつは、もう声を抑えられないようだった。「おまえの名前はな」もったいつけんな、とそいつは言った。だが、これは、特別な名前なのだ。深呼吸して、宣言してやった。連れていけるもんなら、やってみやがれ。 「オイディプス」 天上界の電車にキセル乗車してきたそいつは、不敵に笑った。
〈了〉
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