夜の燦 ( No.2 ) |
- 日時: 2008/01/15 22:38
- 名前: Raise
- 第十回短編コンテスト参加作品、Raise、「夜の燦」
夜に燦々、ともしびの輝く様を、葉子は石段に腰掛けてぼんやりと見ていた。彼方より、祭囃子。遠くには、露店の光と歓声。人気の無い本殿の裏手で、葉子は紫の浴衣に黒い帯、うちわ片手で物思いに耽っていた。 葉子の心に浮かぶのは、今日執り行われた、勝の葬式のことであった。葉子は、勝の実子ではない。勝の弟夫婦が事故で亡くなり、当時子宝に恵まれなかった勝、豊子夫婦に引き取られたのであった。二人には実子、つまり葉子の妹が居ることには居るのだが――これは放蕩の末、勝の嫌う文筆家と婚約、離縁を言い渡されたのであった。スピーチは葉子が行ったのであった。 その葬式の間、葉子には、空がひどく眩しく見えた。線香の煙が夏空に吸い込まれていくのを見ているうちに、父の死が現実へと昇華されていくのを、彼女は感じたのであった。そして、こう疑問に思ったのであった。 仏様は、空に昇った魂まで救ってくれるんやろうか。 葉子がそのようなことに思いを巡らすのは、十三年ぶりに会う妹、春枝のキリスト改宗が、どこか心にひっかかっていたからであった。 ――葉子、ああ、葉子。お久しぶりねえ、元気してたかしら。 春枝が、声のかかる方へ顔を上げると、そこには春枝が居た。十三年ぶりの再会である。葉子は顔に笑みを作り、出来るだけ朗らかな声で言った。 ――春枝、お久しぶり。母さんには、もう会ったんか。 春枝は、にこりと頷いた。その微笑は、夜とかがり火の光に縁取られて輝く。 春枝はあっさりとした、どことなく寂しげな顔立ちの葉子とは違い、生来が派手な顔つきであった。その纏う赤の浴衣が、夜の火に映える。ああ、変わってない、この子は、と葉子は思う。 春枝は、気持ちが沈むような出来事があると、いつも赤の衣装を纏う。葉子が子供のころから、春枝はいつもそうだったのだ。それも、かがり火の様な輝かしい赤ではなく、暗闇に輝く金魚の鱗のような、どこか影の染み込んだ赤だ。 左千夫さんはお元気、切り出すのは葉子だった。 ――ええ、お陰様で夫婦共々達者してるわ、元気過ぎて暇を持て余してるくらい。それはまあ、羨ましい。何なの葉子、それ嫌み? 私かてそれなりに忙しいんよ、主婦は趣味で出来るもんとちゃうんやから。尚更羨ましいわ、と葉子が言うと、春枝は軽やかに笑った。沈黙が、横たわる。切り出すのは、葉子だ。 ――お母さん、何か、言ってた? 十字は、浴衣には似合わんよ、って言われたわ。お母さんらしくて、凄く懐かしかった。そいで、凄い悪い気がしたわ。 葉子は、春枝の首に吊るされたロザリオに目をやる。 そのロザリオは、葉子が初めて見て感動を覚えたのと同じものだ。そうなれば、ずいぶんと年季の入っているはずなのだが、古びたもの特有の鈍い光を発しながらも、相変わらずロザリオは丁寧に磨かれ、汚れ一つ無かった。 ……勝が春枝との離縁を決意した原因の発端は、春枝がキリスト系の大学に行きたいと言い出したところにあった。しかも、その理由というのが、神父とお近づきになりたいから、という言い分であったのだった。最も、勝も、無論春枝も豊子も、そのようなことは信じていなかった――多少は遊び人気質のところがあるとはいえ、当時恋愛にはからっきしだった春枝が、そのような行動に出るはずがなかったのだった。しかしそのようなことで改宗をするようならば離縁をする、と申し出た勝に対して、春枝は居丈高にそんな家なら出ていきます、と言ったのであった。 それも、もう十三年前の話になる。葉子は、溜息を付く。 ――お父さんは、死ぬ前とか、何か言ってた? 春枝の声が少し縮こまったように、葉子には思われた。彼女は、首を振る。――最後まで、寡黙な人やった。死ぬのが怖いとか、そういう泣き言は一切言わんかった。ただ、夜になると、いつも一度、春枝は、元気にしとるやろか、と言っとった……。 春枝はただ、悪いことしたなあ、と短く言うのみであった。 葉子は、春枝が誰よりも父を慕っていたのを知っている。寡黙な父が畳の上で工芸品の仕事をする傍、ちょこんと正座をし、その手つきをじっと見ている春枝の姿を、葉子は不意に思い出した。 遠くからは、神輿の歓声が聞こえてきた――祭りも、もう佳境なのだ。あの神輿が、竹田工務店での父が担う最後の仕事となった。職人が死を迎えようとも、その作品は生き続ける。そのことが、葉子には妙に重くのしかかった。 ――母さんは、何も言わへん、いつもそうや。出し抜けに、春枝が呟いた。小さな声で、でもはっきりと、彼女は言葉を続けていく。 ――えらく、寂しいことやな、と思うし、悪いことしてしもうたな、と思う。昔から、母さんはそやった、何も言うてくれへん……言うても何にもならん、と母さんは解ってるんやろう、でもな、それがすごくうちには寂しいんや。そりゃ、母さんはマリア様やあらへん、でも、せめて人並みに、怒ってくれたら気は晴れたと思う、すごい、自分勝手なことやねんけどな……。 葉子は、黙っていた。春枝も、それだけ言い切ると、口を閉ざす。 祭の歓声は、ただ仄闇に、潮の如く満ち引きするのみであった。 ――川の方とか、ちょっと歩いてみいへんか。 葉子がそう言うと、春枝は黙って頷き、立ち上がる。祭囃子の音は、もう彼方へと遠ざかってしまっていた。二人、同じ肩を並べる。 きっともう、あの神輿も遠くへと行ってしまうのだろう、と葉子はふと考えた。
ねえ、ずっと不思議に思ってたんや……。 そう切り出したのは、葉子であった。境内は熱気と騒めきがどんよりと輝いていて、闇の中ではかがり火が淡々と照り続けていた。 ――何、何か聞きたいこと、あんの? 春枝は、何かの拍に合わせながら、階段を下りていく。葉子は、少し非難めいた口調で、言う。 ……どうして今の今まで連絡くれへんかったん? あんたが結婚した人は、そりゃええ人やろうし、あんたは何だかんだ言ってうまくやってるとは思うけどな……でも、そういう夫婦の問題だけとかちゃう、何かしら私達に頼らなあかんようなこと、あったんとちゃうん……。 くすり、春枝が、笑う。そんなん、無いよ、葉子……そんなこと、無かった。あたしは親不孝な子やさかい、別に親に頼れるとも思わんかったがな……。 二人は羽虫の騒ぐ路地を抜けながら、囁くように声を交わす。……そんなん、寂しいと思わんか、春枝……あんたがお母さんの態度に寂しいと思ったと一緒ちゃうのん。――お母さんは、もう歳やもの、あれが老いた人の正常な反応やないの。 ……せやかて、あんたはまだ若いやないか。 前に出た春枝の顔は、暗闇に彩られたままで、葉子には見えない。 川べりまでは、少し歩くだけ。祭り帰りの人々が通る幅広の路を避け、二人は狭い路地を歩き続けていた。しばらくの沈黙の後に、春枝が口を開いた。 ……ねえ、葉子、そんなに頼るって大事なんかなあ、と思う……重荷なんちゃうんかな、そういうのって……家族やからとか、姉妹やからとか、嫌なこと言うけど、お父さんが心配してたからいうて、何であたしがあんたに頼らなあかんのやろう……。 かがり火はもう遠い。空、月、仄かに淡く。二人は黙る。
草むらに座ると、ひやりとした心地よさが葉子を包込んだ。春枝は懐から何かを取り出すと、ライターの火を近づける。その揺れる赤が、葉子の目に染みた。 あんた、煙草吸うようになったん? 春枝の手を見て、葉子は言った。 ――そうや、やるようになってもうたわ。昔はお父さんが煙草吸ってんの、あんなに嫌いやったのにね。 土手、川は闇に染め上げられ、ぬったりと呼吸している。彼方には、鉄橋が見えた。ついこの間、この地方都市と県中央の繁華街との間にひかれた路線である。葉子は、水音にまぎれてしまうような小さな声で、そっと尋ねる。 ――あれから、どないなったん、キリストの神父さんとは。 問い掛けにはすぐには答えず、春枝は、一度加えた煙草を、すぐに草に押し付けてしまった。じゅ、という音、火の消える。 ……そんな人、最初からおらんよ、嘘や、そんなん、お父さんもあんなに怒るぐらいなら自分で確かめてみればええのにな……。 葉子は、春枝がそう言い終わるまで、ぼんやりと、黒の川を見ていた。 ……そうか、嘘やったんか。 葉子は非難の色を出来るだけ声音に出さないよう努めたものの、やはり、その試みは失敗に終わっていた。 葉子は、俯いて草むらに潜む暗闇へと目をやる。春枝は、月を見る。 ……怒る? 春枝は、微笑みながら、そう聞いた。なぜか、その微笑は、葉子には淡い哀しみをたたえているように見えた。 ……家出ていったうちのこと、怒る? 沈黙。葉子は、草の上に寝転ぶ。春枝も、それにならう。水音は、こんこんと。 ……何で、出ていったん? 言ってええのん? 何であたしに聞くのよ、と言う前に、春枝がそれを遮るように真剣な声で言った。 ――十三年前のことやと思って、許してくれるか、怒らんといてくれるか。 葉子は、ただ、頷く。
――あたしとあんた、歳何歳離れてたんやったけ、そやな、二歳か……。お父さんな、あたしが産まれることなんて全然予想もしてなかってんて、昔嬉しそうに言ってはったわ。 ……あたし思うんやけどね、葉子、やっぱりあたしとあんたは姉妹やったと思う、でもそれでも血が繋がってない、っていうのは、皆にとっては大きいことやったんやろうと思う。それを一番気にしてたのが、お父さんなんや。 あんたは知らんかもしれんけどな、お父さん、時々お母さんにぽつりとこう言うことがあったんや、おれは、おまえのことを充分可愛がってやれてるやろか、ちゃんと葉子と同じように可愛がってやれてるやろか、ってな。その度にお母さんも、取り繕ったような声で、ええ、そうですよ、って言ってたけど、……あたしはね、お父さんは葉子のことを可愛がってたんやと思う。お父さん、それすごい気にしてはったんよ、そりゃ両方とも自分の子供やねんけどな、ほら、あたし昔から言うこと聞かんで強情やったから、どうしても可愛がりにくかったんや、それで、あたしのことあんま構わんままやった、っていうのを、ずっと気にしてはった。 しかも、お父さんは、それが単に自分の気性と合う合わないの問題だとは思わんかった。養子のあんたに気まずい思いさせたくないあまりに可愛がってるとちゃうんやろうか、とずっと自分のこと疑ってはったんや。 少なくともあたしが家に居る間は、そやったと思う。 あんた覚えとるか、お雛さんのこと……あんた、自分のお雛さん持ってないやろ、あれな、あんたはもしかするとあたしが贔屓されてると思ったかもしれへん。実際、お母さんはお父さんにどうして買ってやらんかったのか、聞いたんや、安いけど、しっかりした雛を買える程のお金は、あったのに、って……。 そしたらな、お父さん、あたしがおこぼれ頂戴するみたいに、あんたの借りる羽目になるのを、かわいそうや、言うたんや。女の子二人に雛を買うわけにもいかんし、それにあいつがお姉ちゃんやからな、とも言ってはった。 ……でもな、あたしそれ聞いて、すごい悲しかったし、悔しかってん。あたしはあんたのこと好きよ、でもな、それでも、やっぱりあたしはあんたの妹やねん、あたしはお父さんに可哀想に思われてしまうねん、全く別々の血やのに、別の人間やのに、そんな風にして贔屓されてしまうねん、しかもな、本当にお父さんが好きなのは、あたしとちゃうかった、あんたやったんや。 そんな風に思う自分のこと、浅ましいと思うけどな。 お父さんがそのことに苦しむ度に、あたしはな、どうしてあたしたちは姉妹なんやろうな、と思ってたんや、いっつも。あんたが別の家の子供のままで居てくれたら、どんだけ幸せやったやろうか、と思う。一緒に遊べる近所の友達程度やったら、もっと幸せやったかもしれん、と今でも思う。 あたしね、お父さんがあんたに意地悪して雛を買えへんのやったら、どんなにあたしは幸せやったやろうか、とも思ってるんよ。あたしがあんた好きになれんかったら、お父さんがあんなに優しい人とちゃうかったら、あたしとあんた、それからお父さん、お母さん、皆がひとつの家族とちゃうかったら……。 あたしが家を出ようと思ったのは、あんたが神輿作るの手伝うって言い始めたからなんや、あんたもお父さんの仕事を手伝う、ってお父さんに言うたとき、お父さん、すごい悲しそうな顔してたの、覚えてないか。お父さんは、ああ、しまったと思ったんやろう。 お父さんとあんたは、まるで本物の娘、いや血が違うということで、本物の娘以上の関係になっとったんや、とあたしは思う。お父さんはあんたのあの時の真摯な言葉を聞いて、やっとそれに気付いたんやと思う。 あたしは、ああ、もうあかんな、とお父さんの顔を見て思ったんや。あたしは、もうこの家を離れるしかないんやないか、と考えた、ずっと悩んだ、夜の間もずっと、眠れんかったからな……。それで、あたしは家を出たんや。
話が終わると、春枝はまた、煙草に火を付けた。再び、火は小さく揺れる。 葉子が精いっぱい言えたのは、そうか、ごめんなあ、という言葉でしかなかった。あたしこそ、ごめんね、葉子、こんな話してしもうて、でもな、やっぱり言わなあかんことやと思っててん……。何でかとか、聞かさんといてな、何か、話さなあかんことやとおもてん。 そう言いながらも、葉子の心には、何かとても苦々しいものが、確かにあった。葉子は、まるで自分が責められているような気さえしていたのだった。それは、隣近所から聞こえてくる見知らぬ親の怒号に怯えていた、幼き頃の自分を葉子に思い浮かべさせた。 不意に、電車が線路を叩く音が聞こえた。 電車の窓から漏れた光が、一瞬ながらも、燦々と、夜の水面を自らで染め上げた。電車はすぐに橋を渡り切り、川面はまた元の黒い流れへと姿を戻す。夜が、水に溶けこんでしまっているようだ、と葉子は思う。 ――そういう決意が、誰かの人生を変えてしまうんなら、寂しいことやなあ。 葉子は、そう、呟いた。春枝は、まだ月を見ながら。煙草の火は、夜に短く。 煙が、黒い空に舞い上がる。仏様は、お父さんの魂を救ってくれるんやろうか、と葉子はまたそのことに思いを馳せた。私の線香よりも、春枝の煙草のほうが、お父さんには嬉しいのかもしれん。不意に浮かんだ考えを、葉子は咄嗟に、そんなことない、そんなことがあるはずはないんや、と打ち消した。 ――あんた、お父さんのお店、継ぐんやろ、お母さんに聞いたわ。何でそんなことしようと思い立ったん? 春枝は、穏やかな声で、そう問い掛ける。落着いた顔を崩さないまま、その横顔はずっと月を見ていた。 ――何でやろうな、何でやったんやろうな……。 その横顔は、いつでも私より美しい、きっとそれはずっと変わらないことなんや、と葉子は思う。あたしは、お父さんと血の繋がってるあんたが、ずっと憎かったのに、と。どうしてそんなこと告白出来る勇気が、あんたにはあるんやろ、春枝。葉子は、くちびるを、噛みしめる。 そんな風に決意出来るあんたが、あたしには羨ましい、どうしてあんたはそんな風に、あたしを負かしてしまうんやろう。不意に、彼女はそう思った。 ――もう、帰らなあかんわ。旦那のご飯、作ってやらなあかんねんよ、毎日。 春枝が、二本目の煙草を、草に押し付ける。火が、消えた。夜風が、春枝の赤い浴衣をそっと揺らし、闇夜の流れ込む海へと、静かに去っていった。あの電車に乗って来たんよ、と春枝は鉄橋を指さしながら言った。と、丁度特急列車が、鉄橋にさしかかり、また燦々と光を夜に投げ掛けては消えていった。 ――うち、もう帰るね。お母さんに、よろしく言っといて……。 春枝がそう言うと、葉子は顔をゆっくりと上げ、さよなら、葉子、と言った。さよなら、お姉ちゃん、と、春枝は返し、夜の向こうへと歩いて消えていった。その言葉が、葉子に突き刺さった。 春枝の背中を見ることなく、葉子は神社の方向に向かって歩き出す。祭囃子は、もう聞こえない。それでも、燦々と輝くかがり火は、また葉子の視界に入ってきた。 祭りも終わり、神輿が本殿横の倉庫におさめられようとしていた。あの神輿が朽ちれば、次にこの祭りの神輿を作るのは自分なのだという実感が、不意に葉子に湧き出してきた。人もまばらになった境内では、露店の片づけの準備が既に始まり、かがり火もまもなく消されようとしていたのだった。 そんな中、葉子はひとり、まだ消されていないかがり火を、見ていたのだった。既に終わった祭りのために、未だ燦々と夜に輝き続ける、眩いだけのかがり火を。
[終]
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