豚は生きる ( No.5 ) |
- 日時: 2007/09/15 23:44
- 名前: Raise
- 第七回短編コンテスト参加作品、Raise、「豚は生きる」
原子爆弾一発で、何万もの人が同時に死ねる。つまり、一人の人間が万の人を殺す事が出来る、ということだ。命というものは皆平等に重量を持つというけれど、僕には原爆の光に呑み込まれた人達と、幸福な家庭で安らかに死を迎えた人達の間に明らかな命の重量差があるとしか思えない。命ですら、不平等だ。僕らは、不条理の世界に生きている。 僕が、その年の春、絶望していたのは、そんな事だった。多分大人になったら一時の憂鬱として馬鹿だったと笑えるような、そんなティーンエイジャー特有の熱っぽい憂鬱。死ぬ勇気も生きる気力も無く、ただ流されるだけの日々というものに対する恐怖。ある日から僕は、娼婦の街に出るという悪趣味な放浪を始めた。
ネオンサインの、集落。建物のありとあらゆる壁はポルノ写真とブルー・フィルムの広告を引下げ、疲弊した表情の人達は皆手に避妊具を持ち、一時の遊戯に熱中する気力も無く、通過する様に性欲を解消する。 自分にとって、その街は一つの墓場の様に思えた。そして、柔らかく、ゆっくりと死んでいく、腐っていくという事に僕は退廃特有の優しい光の感触を感じていた。春風は、隙間の無い街に座り込み、腐り、暗渠の中に呑み込まれていた。 僕は悪趣味な遊戯に浸っていただけだった。疲弊した表情の人々を見る、という事に。その事を、あの夜に寝た彼女は、こう言った。 「代理荒廃、ね」 代理荒廃? ピンキーな壁紙が目に痛い、何人もの体液を吸い込んだろう赤いシーツに僕は無気力に寝転び、彼女はネオンサインの波を見ていた。 八階のホテルから見る世界の眺めは、大地に這いつくばる奴隷のシルエットに似ていた。世界は、どこまでも醜かった。 「誰かの荒廃を見ることで、自分の中の荒廃欲を満たす。ねえ、あるでしょう、そんなこと? 例えば、スポーツ新聞で自殺した女優の悲話が語られる。隣人が子供と共に交通事故に会って死ぬ。最終的に、こういう遊びの目的地は仮想の死になるの。悲話のかけら、一つ一つの条件や言葉、交通事故に至るまでの幸福なプロセス。そういった物からは、荒廃特有の匂いがある。自分に荒廃する勇気は無いから、そういう匂いを借りてきて、吸い込むの」 彼女は、電気のスイッチをオフにする。夜に投げ込まれた猥雑な光が、夜風に揺れるカーテンを通り越す。この街で、一体何人の人間が? いや、この国で今一体何人の人間が性行に興じているのだろうか、と僕は思う。 彼女に、聞く。男女のペア、その総数の半分ぐらいだと思う。彼女は、そう言って、服を無造作に脱ぐ。 「人間は性欲を解消しないと生きていけない生物なのね。残酷じゃない?」 「そう?」 「思った事があるわ。父も母も、隣人も片思いをしていた人も、憧れていた教師も、どんな聖人君子も、結局は、皆自慰をする」 「絶望した?」 「絶望したわ。……世の中って、ああ、下らないな、って思えた。この国に住む男女のペアの半分が、きっと今演技をしながら、虫のそれよりも低劣な性行をしている。これも、その一つ」 彼女は若い女で、僕と同年代のティーンエイジャーにも見えた。外から流れ込むカラフルな光に照らされた手首には、リストカットの傷痕が魔方陣の様な図形を描きながら幾多も重ねられていた。 「そう思うことも、代理荒廃?」 「ええ」 「その手首も?」 「そうよ」 僕たちは、寝た。結局、性行はせずに。
夜の温度が冷め、朝が訪れ、そして僕はひとり、冷たいシーツの上で目を覚ます。春特有の、退廃めいたあの香り、命が昇華し死が熟成される香りに満ちた空気が、部屋を満たしていた。シーツには、二人分の汗が染みついている。 朦朧とする頭で、僕は青い光に包まれた窓の外の世界に、目をやる。 アスファルトの路地裏では、カラスが死と悪徳のシンボルを強制されている様に、でもやはり貪欲に、肉を突いていた。赤い、死体。五階から重力に突き落とされ、彼女は静謐と緊張の中でそのちっぽけな命を失っていた。 光が、見えた。 想像の中で描いていた原子爆弾の光や、彼女が言った代理荒廃なんてものが疑似的に放つ光よりも、ずっと強い光が、汚らしい路地の上で横たわっている。 ひかり、ひかり、ひかり。 胎児が世界に生まれ出た瞬間上げた泣き声の様な、光。世界の根っこと繋がって解け合わさっていく、光。僕は、光を見た。 生きよう。生きよう、生きよう、生きよう、生きなきゃならない、生きていかなくちゃ、生きるんだ、生きて、生きろ、生きてしまえ。代理、荒廃。 死の光を宿した彼女を、カラスの嘴が啄ばんでいく。そうしてまた、光は僕の手から遠ざかっていく。性的だ、と思った。死は、性的だ。僕は嘴に吸い込まれていく光から目を背け、目を瞑って、祈る。 僕なんて、生きてしまえばいい。
事務的に行われた事情聴取は、僕を完全に無罪だと断定した。学校は歓楽街を歩き回った上に事故を起こした僕を二週間の謹慎処分にし、両親を悲しませた。けれど、そんな事は僕を絶望させはしなかった。 寧ろ、あの時見ていた光が、世界の何処にも、手の届かないところに行ってしまった。その事だけが僕を苦しめ、自慰をさせた、彼女の言っていた様に汚らしい手付きで、そうして生きさせていた。 誰かが言っていた。自殺と異常性欲、どちらを選ぶか、それが僕らの時代だと。彼女が光となって死んでいたあの瞬間を、僕は真昼に何度も見る。脳細胞は既にグラタンの様に溶け合わさっている。いつの間にか、僕は荒廃の内側に居た。 自殺するという考えは、もうどこにも無かった。しかしその為に、僕は一層世界というものに抵抗感を感じなくなっていた。
持続的に今日も世界のどこかで戦争は続いている、僕らはそのニュースを見ながら性的な遊戯に耽る。一匹の精虫がシーツの上で渇いて死んだその瞬間に、アフリカの砂漠で一人の子供が渇いて死んだ。 結局は、皆自慰をする。豚のように。 そう思うと、僕はとてつもない虚脱感に包込まれ、堕落し、眠り込む。僕は目覚めている事そのものが億劫で、ほんのばかりの水だけを飲んで、また何度も眠るといった生活を繰り返していた。僕は悪臭を漂わせる人であり、日本というこの清潔な国家における異分子であり、不必要な存在だった。この、美しい世界のなかで。 生きている、僕はそれでも生きている、死は無意味に怖い。どうして死は怖いのだろう、彼女も自殺した。この清潔で美しい国家において、一日に何人が自殺するのか、果たして全国民が知っているものだろうか。それも知らずに、模範的な国民は税を払い、幸福な食卓に笑い声を上げ、箱庭の試験官で育てられたちっぽけな嫉妬や怒りを時には持ち、夜中には汚らしい豚ごっこをし、生きている。 僕はその事に憎悪を覚えたけれど、既に僕には一つの感情を維持するという事は出来なくなっていた。力無く生きてしまえばいい、という思い。それだけが、僕を突き動かし、光の無い暗闇の中、僕を眠りの殻へと突き進ませていた。 そして、僕の記憶の中で輝きを放っていた光は、脳細胞の液化と同時にゆっくりと枯渇していった。性欲を解消する事が頻繁に行われなければならないのと同じ様に、僕は荒廃の神秘をまた味わう必要があった。この肌で、感触で味わう荒廃を。 つまりは、光を。荒廃の核に潜む、美しい光を。
馨る闇の中、僕はシャワーを浴び、ひっそりとまたあの街へと戻っていた。星の切れ端は硝煙に掻消されていた。一人の落とした原子爆弾で何万もの人が死んだ、命も生も完全に不平等であり苦痛そのものだった。僕は、それでも生きたかった。 重力に押し潰され鼠の様に屍肉を這いずり回る生活でもいいから、ただ生きたかったのだった、不平等な命の中で、僕は、ただ一人の僕として生きたかった。死は幕切れよりもあっけなく、自然な行為として消化されていく。この国の人々は、果たしてこの国で何人の人間が一日に死んでいるのか知っているのだろうか。 僕は、四つ角で一人の女に誘われた。顔も名前も無い人々が、今日も疲弊した表情で、娼婦達の荒廃の蜜を盗む為に徘徊し続けていた。僕は、誘いに乗った。 あの時、彼女とは寝なかったのは逆に、僕はその女と寝た。その娼婦は、首輪の様な身体をしていた。内側から滲み出る荒廃を肉で押さえ込もうとして、身体の全体が硬化していた。僕とその女の温度が急激にシーツの中で低下したのと同時に、ずっと無言だった僕は、彼女に窓際に立ってくれる様頼む。 「何なのよう。女にかける初めての言葉がそんなことお?」 ブルーチーズを連想させる声で呟きながら、虫の様に醜い裸の身体を晒していた。僕はその時、醜い荒廃というものを見た気がした。 無意味なまでに醜い、力無き荒廃というものに、僕は愕然とした。清潔な、荒廃だった。この清潔な国、美しい世界で許されている荒廃だった。 誘った娼婦をあの時の少女の様に突き落とそうというイメージを、僕は描いていた。しかし、あの少女が宿していた様な荒廃の光は、彼女には無かった。 僕の手は、力を失う。衝動が、冷める。女は醜く、光は薄汚い模造品で、僕は豚の戯れに興じていた。 「君は、きれいだね」 僕は、唇を噛みしめながら言う。彼女はくっくっと笑う。 「水商売の女にそういう褒め言葉をするもんじゃないよお」 ブルーチーズの声。耳くそとか排泄物の匂いを寄せ集めたような、あの臭いがする身体と声。死者の髄液から立昇る、荒廃のその先に待ち受ける光。それは、ない。 僕は、異常性欲と、自殺、どちらを選ぶんだ。 「代理荒廃」 精液がプラスチックの臭いを立てる空気の中で、僕は反復の為にそう呟く。彼女は僕の呟きにしがみつく、会話を伸ばそうとする。 「なあに、それ」 「誰かが堕落していく様を見て、満足すること。造語だ」 僕は、彼女を陵辱していた。あの美しい彼女の荒廃を、醜く仕立て上げようとしていた。そうする事で、あの光に対する未練を拭おうとしていた。 「悪趣味ねえ。あなたもそんな目であたしを見てるのお?」 「いいや、それ以前さ……」 彼女は、唾を垂らしながら笑う。こいつも豚みたいだ、この美しい世界の住人として、立派に豚として行き続けているのだ。僕の中に、冷たい憎悪が裸火の様に立昇る。それは酸いにおいを立てて発酵する彼女の物言いで、燃え上がり始める。 「そう……あたし頭悪いからわかんないわあ……」 僕はそんな醜い女の身体に、伸びた爪を立てる。眠りに墜ちようとしていた彼女は、痛みに小さな声を上げる。妥協の出来なかった僕は、また豚の様に性欲に踊らされていた。性欲と、生への渇きの中間地点で空中ブランコの様に揺れていた。 「まだやるのう?」 彼女の喉に、僕は何度も爪を立てる。憎悪、憎悪という感情がこんなにも持ち続けるという事自体が初めてだった。 「醜いなあ、お前は!」 僕は渇いた喉で叫ぶ、唾が鎖の様に僕の喉を封じる。僕は悲鳴も上げられない。 夜の闇、悲鳴。彼女は自分の喉に口付けをしながら同時に爪を立てるティーンエイジャーの少年に恐怖を感じた様だった。彼女は部屋の中から逃げ出そうとしている。 僕はどうすればいい? 逃げるのか? 射精するのか? 死ぬのか? 生きろ。 僕は生きてしまえばいいんだ、僕なんて! 僕は逃走しようとする彼女の手を掴み、口を塞いで強引にベッドへと引っぱり上げる。殆ど強姦の様な性行に、しかし彼女は興奮していた、最低だ! 僕は悪態を付きながら、深く彼女の熟れた腐肉に呑み込まれていく、最低だ! 俺は、最低だ! 彼女の喉に刻まれた赤い爪痕は、あの時のリストカットの紋様の様に美しい規則性に従ってはいなかった。そして、僕は果てる。彼女の笑い声がうずまき官を揺らしていた。 「……ねえ……君は、誰もが自慰をする事に、絶望したことがあるかい……」 「そんなのないわよう」 女は卑しい笑いを向けたまま、僕の顔に額を立てた。復讐のつもりなのだろう。彼女の爪が、額から唇へ、そして僕の唇に爪は入り込む。象皮の指が、粘液の様な唾をさらう。 「……そうかあ……世の中には、やっぱり絶望しない人間の方が多いんだな……」 「当たり前でしょお?」 彼女は嘲る様にそう言うと、今度は喉元に爪を刺す。息が、通らない。彼女はそんな僕の様子に満足すると、次は腹、背中と体中に爪の路を付けていった。 僕は自分がした様に身体のそこら中に爪を立てられる苦痛の中を、えらを失った魚の様に泳ぐ。この痛みの先に光はあるのだろうか。 生きる苦痛と退廃の果てに、一体僕らは何を見れるのだろうか。 僕は性器にあてられた爪、尿道官を摘みあげる白痴の様な娼婦を前に、無気力にされるがままになっていた。またあの問いを繰り返す。 今この国でこの街でこの世界で一体何人の人間が性行に興じている……。 僕らの時代、異常性欲と自殺、どちらかを選ばなきゃならない時代。べた付くような性行の果てには何も得られないし、人工化され商業化された性欲が横行するこの国。 「……きみは自分の事を変態だと思う?」 「あんたの方が変態よう。人の身体にいきなり爪を立てたりしてえ」 「……そうだね、そうだ、僕の方がよほど変態だ……」 彼女の指先は体液と仄かな赤に濡れている。清潔な退廃だった。 清潔な手袋で何事をも触り、生命の感触というものを忘れ去ったこの国。荒廃はプラスチックケースの中で標本の様にして閉じこめられる。 「……性欲って、難しいよ……」 「そうかしらん? 出してしまえばいい話じゃないのお」 「……きみみたいに簡単に生きていけたら楽だろうね……」 彼女は笑い、僕の体液と細胞片に汚れた自分の指先を、桃色の舌で舐めた。 醜い性欲に振り回される僕は、生きなくちゃならない、僕は選択したんだ。生きるのだと、彼女が見せつけてくれた荒廃をまた味わうのだと。その、はずだった。 今、僕は最低のティーンエイジャーだった。僕は、妥協したのだった。 原子爆弾の光に呑み込まれた人々よりも、犬畜生よりも、突然の不幸で死を迎える事になったどんな人々よりも、僕の命は軽かった。 春の死臭がするこの美しき世界で、僕はいつまでもこうして嗜虐され続けるだろう。死の価値すら無いような人達の間で。とある光達を失った、彼らの間で。 それでも、僕は生きる事を、異常性欲を選択したのだった。僕はこの美しい世界に産まれた、豚でも魚でも居られない、最も醜い生物だった。
僕なんて、この美しい世界で、生きてしまえばいい。 あの美しい少女が自殺したのと同じ部屋で、僕はこの脳味噌が溶解した様なこの醜い女に嗜虐され続けていたのだった。僕は、またひとりぼっちで目覚める。 いや、きっとこの美しい世界に居る限り、僕は永遠にひとりぼっちで目を覚まし続ける事だろう。もう美しいあの少女は消えたのだから。 そうして、浅瀬を走るのだ、生の。決して深い河に溺れる事も出来ず、ただ浅瀬で憶病者として走り続けることしか出来ない。 そうしてこの清潔な国家の中で、僕は誰にも殺される事無く行き続けて行けるのだろう。あの光は、とっくの昔にこの国から消え去っていた。僕は自分の魂が宿る豚の身体を抱きながら、もう決して深くならないだろう眠りの母胎に、しがみつこうとしていた。もう、それも出来はしなかった。 この美しい世界の夜明けは、また僕らの前に訪れようとしているのだから。 抗えないこの世界の流れの中で、僕はちっぽけなティーンエイジャーとして、豚の子供として生きていなくてはならない。それだけは、確かだった。 夜明けの光の波にもう美しさは無い。あの瞬間、彼女から世界から逃げ出す勇気を持って飛び降りた瞬間に輝きを放ったあの光は、もうない。ジレンマの中で苦しみ、そして恐ろしいぐらいに静かに決意した彼女の、あの光は。 僕は、生きろ。涙を、流す。大気は、眩きに膨れ上がり、この部屋を呑み込んでいた。彼女が決意し、僕が結局逃げられなかった、この部屋で。 生きてしまえ。僕なんて、生きてしまえ。 僕は、最初から生きなきゃならなかった、豚なのだ。この国で、この世界で、この大地で。涙の粒は、裸の身体を伝わっていく。 豚は、涙を流さない。不条理の世界に流されたままで、豚は生きる。 僕は涙を拭う。服を纏い、美しい世界へとまた戻っていく。春の光は、生命の裸火を宿した世界を包込みながら、世界中のあらゆる美しい光を呑み込んでいった。
(end)
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