Re: 【A】第六回短編コンテスト【投票期間/失格一名】 ( No.18 ) |
- 日時: 2007/08/19 00:01
- 名前: Raise
- 【砂の上のプリムローズ】
村の有刺鉄線を越え、砂の舞う寂れた街道を通ると、そこは樹人達の流刑地だった。渇いた樹の表面に太陽の光が吸い込まれる。雨がもう三ヶ月ほど降っていないらしいこの地で、樹人達に水を与えるための看守として、俺は雇われた。半ば強引に。 俺は旅をしている。とはいいつつも、何処かに何かの目的地がある訳でもなく、単に放浪を繰り返しているだけだ――目的地の無い旅を果たしてそう言えるかは別として――稼ぎ口を行く所で見つけてはそこで一ヶ月ほど生活する。そんなサイクルを繰り返しながら生きてきた。 いつも通り木製の表情を器用に動かす樹人達にホースで水をかける。ただこれだけの仕事を村の住人達は忌むべき仕事だと言ってやろうとしない――この流刑地のまさしく伝統だった――稼ぎ口や寝床の無い旅人を世話係として雇う。拒否された場合は脅迫でもしてやる。それでもどうしようもないなら、水路から引いた水をホースから出しっぱなしにする。怠惰的な民族なのか、純血性の民族なのかは解らないが、各人各人が皆同じ思考をしている様な所だった。 ――その村は流刑地だった。樹人は家族を殺した者への重刑だった。樹と化した罪人は決して自ら動く事は出来ず、半端な生命力を持って永遠に気候に晒される。全くよく出来た刑だ、と俺も感心させられる。そしてこの村をその流刑地に選んだあたり、中々執行者にはナンセンスの才能があると言いたくなる。 ……長くなったが、そういう訳で俺はこの地で一ヶ月の拘留を受けていた。ぼろ布一枚だけを羽織り、青いビニール・ホースを担ぎ、死者の髄液を連想させる殺人的な太陽の光に曝され、鼠の死体がぷかりと浮かんだ排水路からの水をお喋りな樹人達にかけ、砂の上に脱糞している少年達に困ったような薄笑いを浮かべられながらも、働き続ける。 別に嫌という訳じゃない。疲れるだけだ。老人達の、或いは若者や少年達の会話を切り抜けて、俺は砂に濁った水を放出する。彼らは感謝の言葉も言わず、ただ自分たちが人間であった事を思い返しているのか、ただ会話を続けている。 そんな中、俺がコンタクトを出来る様な樹はほんの数本程度だ――ここではそもそも言語というのが殆ど意味を成していない。彼らにとって会話は性欲処理にまさる快楽を伴う事なのだそうだ。(そうして俺は、またあの処刑を考え出した人間に対してまたナンセンスだと思う)だから、会話には道理も論理性も無い。誰かと話すのではなく、自分と話しているだけなのだから――その中の、老樹のアイリスは貴重な存在だった……つまりはこの樹の中では実に狂った奴だ。 砂塵に塗れた桜の老樹のアイリスに俺は水をかけながら話しかける。 「お早う、アイリス」 「何かしら」 何かしら、ってどうせ今日も同じ話題に決まっているだろ――お前を責立てるんだよ。母胎と赤子を結ぶヘソの緒の様に歪に曲がった彼女の根に俺は水をかけながら言う。他の樹人達が俺にもかけろと文句を言う。俺はホースの方向をそいつとは別の方向に向ける。――アンタは根性が曲がってるわ。俺は返す。お前の根っこよりましだ。 「お前自分の母親と父親、それから子供を殺したんだってな。大した猟奇犯なんだ、お前って」 そうやって俺はいつも通りの事を言う。 「そうらしいわね」 ねえあなた、こんな事いい加減に止めない? 私はもっと知的な会話を望んでいるのよ、何せ百年前からこの地にはまともな脳味噌の奴なんて一人も居なかったんだから。俺はアイリスの初めての抗議に微かに昂揚感を覚えながら、仰せのままに、と皮肉の様に呟く。可愛くないわ、とアイリスは言う。 「シングルマザーだったのか?」 「そうよ」 「……ふうん」 それがどうかしたの、と彼女は言う。 「いや、不思議な物だなと思って……百年前のお前はお前の父親と母親の精子と卵子から――つまり欠片から出来てるんだろう」 高温の空気が風に飛ばされずにとどまり続けている。樹人達のお喋りは続いている。 「まあ、随分詩的ね」 「軽い発作みたいなもんさ。……お前は自分を作り出した人達を殺して、それから自分の欠片で出来た人をまた殺した――俺は思うんだがね、お前は自殺しようとしたんじゃないのか?」 彼女の木製の表情はいつも通り微笑したままだ。その表面に付いた砂粒を俺は払う。ビニール・ホースから直接水を飲む。また腹を壊すだろうが、村で軟禁されている俺が水を自由に飲めるのはこの機会しかない。 「ナンセンスね。知ってるでしょう、私達樹人にはね、殺人と家族の記憶が失われてるのよ。そうする事で、一番強烈で残酷な刑を完成させるの――“自分の知らない家族を知らない自分が殺した”だなんて、ナンセンスでしょう? こんな刑を考え出した人間を八つ裂きにしてやりたい」 「という事は、お前は両親の記憶も無いのか?」 「ええ。百年前に消されたわ。……だから残念だけど、あなたのお望み通り私が欠片から生まれた事って無いわ……そもそも私には欠片が無いのだから、私というものそのものが有って無いものなの。解る?」 「解る必要は無いだろうけど一応解っておいてやる――お前、百年前から少しでも丸くなったのか?」 俺がそう言うと彼女は表情を歪ませ――きっと生前の彼女はチャーミングな桃色の唇を持っていたに違いない。俺の好みのタイプだったのだろう。その時に会えなかったのが残念だ――全く変わってないわ、と言った。 「お前は両親を殺してから子供を殺したんだろう。つまりはお前は、自分の表情が見える全ての人間を殺した訳だ……お前が一人っ子で良かったな、全く」 「ナンセンスな考えね。私は、そうは思わないわ。単に、催したからよ。排泄と一緒」 俺は鬱陶しい頭上の太陽を見上げながら言う。 「お前達、子供作んないの? 後どうやって排泄とかしてんの?」 「排泄の必要性自体無いわ。この身体結構クリーンなのよね。子供は最初から作れないわよ。樹の機能を殆ど失っているんだから」 ずっと気になってたんだよ、それ。感謝感謝。あなた、変態でしょう。樹に情欲出来るなんて、世界に存在しているなんて思ってもみなかったわ。お前みたいな女には想像力が無いんだよ。妄想力はあるくせにな。そう悪態を付いて、俺はアイリスに背中を向ける。 そうして、ホースの航跡を手繰り、水路の雇い主の前へと戻る。俺は樹人達に水をやるのにどうしてこんなに時間がかかっているのかと水路であぐらをかいている彼に聞かれる。俺はちょっと樹に情欲を感じまして、と薄笑いを(それも、出来るだけ厭らしい物に映る様に)浮かべながら返す。彼は狂ってると吐き捨てる様に言いながら――こう言った。なら女を抱いてみるか? 俺は言った。何てこった。俺より狂ってる奴がもう一人居たよ。化け物女だけどな、お前の居る牢獄に閉じこめられてんだよ。 見てみたいね。その化け物女。俺がそう言うと、彼はこう言った。ナンセンスだ。
*
――その子は、自らの名をプリムラと名乗った。樹人とのハーフ、花の娘だった。(どうも変態は俺一人だけじゃなかったらしい。樹がどうやって生殖行動に出れるのか非常に興味をそそられる様な変態が)生まれた後、村人に嗅ぎつけられ、父親の人と母親の樹人を殺されたと言った。彼女の髪は植物の緑で、その皮膚には藤色の花が絡み付いていた。彼女はぼろ布一枚を羽織っているだけで、殆ど裸に近い状態だった。 「君が私を抱く人なの?」 「抱くって意味解ってんの、お前。ガキじゃん、未発達じゃん。悪いけど俺はそういう人じゃ無いし」 「その未発達の身体をそこまで観察するなんて大した変態さんだね、君って」 彼女はそう言うと俺の身体も自分と殆ど同じ半裸の状態である事にようやく気付いたのか、顔を赤らめた。彼女の秘所には小さな藤色の花が咲き、赤い肉に美しく映えている。 「……まんざらでもねーよなぁ」 彼女はそう言うと顔を引攣らせた。……いや、だから俺はそういう趣味無いし。ちょっと話相手欲しかっただけなんだよ。抱くまでしなくても一人で解消出来るさ。俺がそう言って猥褻な指の動きをすると彼女は俺の頬を突然に打った。最低。どうも、褒め言葉として受け取らさせてもらいますよ。 「……その藤色の花、サクラソウだろ」 「あら、よく解ったわね。私パンジーとよく間違えられるのよ」 「ここの村人は視神経どころか脳全体に問題がある様な輩ばっかりだからな。……それでプリムラ、か」 「学名ね。ちょっと洒落てるでしょ。アカデミックよ」 そう言うと、議題はもう無い。砂漠の夜は寒い。ほぼ裸で座り込んでいる自分達にと特に堪える――というか、軽く死ねる。寒さに耐える俺を見て彼女は笑う。あら、人間って不便ね? 私は全然寒くないんだけど? 便利だな、植物って……。俺がそう言うと彼女は無神経ねと言う。 「……お前は自分の家族が殺された事についてどう思ってるんだ?」 彼女は俺の無神経な問に軽く怒りをこめた視線を向けたが、すぐにその感情を解いた。そんな質問をされた事自体、初めてなのだろう。 「そうね。……まだ小さかったから、その時の感情は今でも上手く表現出来ないけど。物心付いてからの感情なら言えるかな。多分私が植物と人間のハーフだからからだと思うんだけど、それも仕方ない気がする。……植物もいつかは必ず枯れるし、人間も同じ。だからからかな。結局、生きる事の最終目的は死ぬ事でしょう? だから、私は死ぬ為に産まれたの……そういう意味で、私の父母はちゃんとその責務を果たしたんだと思う」 お前、凄い子じゃん。……無神経ね、あなたって。大体こういう時は、秘めた本心が中にあるものじゃない? 彼女は子悪魔的な花弁の様な唇で美しく弧を描く。皮膚に咲いた艶やかな藤が月の光にてらてらと耀いている。……胸が薄い人間に考えが深い人間等居ない。そう俺が呟くと、彼女は顔を赤らめつつも頬を打った。 また零下の沈黙が訪れる。先に口を開くのは、俺。 「……花の娘は植物や樹人の記憶が読み取れるんだろう?」 彼女は頷く。確かにそうよ。でもそれが何だって言うのよ? 「明日俺と一緒に付いてきてくれるか。樹人達の所に」 彼女はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。そうして、零下の空気に奮える俺にそっと身体を寄せてくれた。彼女の温度が皮膚を通じて伝わる。抱くの? 抱かないと言っただろ……。じゃあ暖めてあげる。寄るな。じゃあ君を不快にさせる為に傍に居る。寄るなっつってんだろ……。
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都合よい、あまりにもご都合主義的な幕引きで俺の滞在期間は終わる事になった。 新たな旅人を彼らは捕え、俺は見飽きた村から追放された……その際にプリムラの保護者を所望した所、彼らは野卑な笑いを露骨に示しながら、良い厄介払いだと言って承諾した。 「行くぞ、プリミラ。今日から俺がお前の保護者だからな。ご主人様って呼べ」 「このロリコンめ。世界の為に死ね」 取り上げられていた衣服を返してもらい、それをプリミラの花が咲く身体にかける。藤色の花が野暮なジャケットで覆い隠してしまうのは少し残念だったが、彼女自身裸には抵抗があった様なので勿論着せた。 「ねえ、そのアイリスってどんな人」 砂塵とエンジン音の中で彼女が叫ぶ。俺も負けじと叫ぶ。 「桜の樹人だ。お前によく似た性格をしてるよっ」 「どうして記憶を読み取る必要があるの?」 「ボランティア精神だ。樹人の消された記憶を読み取るなんて芸当、花の娘にしか出来ないだろうからな」 「使い込みって訳ね」 「それだけじゃないさ。……それだけじゃないから、引き取ってるんだろ」 ……俺はジープに彼女を乗せ流刑地へと車を走らせる。歩いても精々十分程の所だったからすぐに着いた。 樹人達は相変わらず殺人的な直射日光の元で会話を続けている。それぞれが自身の快楽の為にただ言葉を挟み続けている。その中で、今日もアイリスは沈黙している。 「アイリス。今日でお別れだ」 俺はプリミラの手を引いて彼女の顔の前に立つ。 「あら、そう。案外呆気ないのね、変態さん」 「……最後までそのレッテルは剥がさないんだな。今日でようやく解放される事になった。そのお祝いに、とりあえずお前を俺の奴隷にしようとだな」 後から蹴りが入った。俺は砂の上に倒れ込む。見上げるとプリシラが無言で首を下げている。……樹人達の会話が止まった。彼らの表情に明らかな困惑が浮かんでいた。花の娘だという囁きが空漠とした砂漠に広がる。アイリスも呆然としていた。 「珍しいわね、花の娘が樹人に会いに来るなんて」 「お父さんに頼まれたんです……あなたの記憶を、取り戻してやってくれって」 「……あら。あなたって、もしかして妻子持ちだったの? それも樹の。……変態のあなたもあなただけど、その奥さんも奥さんよね、全く……」 違う。俺の名誉にかけて言うが俺は樹フェチじゃねーよ。それよりお前、父さんってどういう事だよ……。俺がそう言うと彼女はその桃色の唇に太陽の光を一身に受けながら短く説明する。 「だってあなた私の保護者じゃない」 あなた……まさか子供をさらってまで性欲が溜まってるの? だから違う。断じて違う。髪の毛についた砂を取り払いながら俺は立ち上がる。 「お前なあ……別にお父さんなんて呼ばなくても良いだろ、いくらなんでも」 「あ、いざ行為に踏み入れる程近くなったらそんな風になるんだ。キミって意外とヘタレなんだよね、お父さん」 そう言うと彼女はジャケットを小さく脱いで汗の雫に濡れた藤色の花を見せつける。砂のカンヴァスと無彩色の中にその色が美しく映えている。再開してくれ。……埒が開かん。俺が言うと、プリミラはジャケットを脱ぎ捨て、また裸になった。 そうして、彼女は無言のアイリスに近づく。アイリスの表情に手をやり、彼女は目を瞑る。褐色の皮膚全体に点々と咲いている藤色の花の色彩が濃密になる。唐突に花弁の中央部から濃紺色の細い蔦が何重にも飛び出し、彼女の身体とアイリスを包みこむ。恥部のサクラソウが赤い肉を覆い隠し、その肢体を全てアイリスと同化させる。 「プリミラ――」 呟きは砂塵に落ちた。
*
……あなたは濡れたタオルを床に力無く落として、すすり泣く。あなたの眼孔は窪んでいて、誰もあなたを救えない……あなたの背中には火傷の後がある、むかでの様なグロテスクな赤黒い肉の蔓……。 あなたには息子が一人居る。あなたに似てしまった女の子だった。あなたは愛されない子だった。……今はあなたは養子だ。あなたは児童養護施設に保護され、そこであなたは幸福な家庭に引き取られた。子の生まれなかったその家にあなたは引き取られた。 虐待されたあなたを、彼らは快く受入れた。まずその事実が、あなたを困惑させた。 それでもあなたは笑顔をもって成長し、そして一人の男性と出会った。あなたの知らない内に、彼はあなたの父親と酷似した人間となっていた。そうして、あなたは別れた。あなたは知らぬままに父親を求めていた。愚かで、憎むべき父親を。 そうしてあなたはまだ幼い娘と共に養父母の家に居る。 あなたは娘の愛し方が解らない……あなたは知らない。あなたは、知らない。愛された事の無いあなたが知れるはずがない。ただ血の繋がりが重苦しい鎖になってあなたを呪い続ける。あなたは彼らの娘だと。彼らの欠片を受け継いでいるのだと。 そしてあなたは愛し方が解らない自分を憎む……その憎悪が蔓延する。あなたはバスルームで石鹸を齧る。痰と共にそれを吐き出しながらあなたは自分が自慰に飽きた事を感じる。その次は自傷だった。死をもった。あなたは自らを幸福な家庭の一人娘に仕立て上げた養父母を憎悪する。そうしてあなたは、夏の日、チェーンソーを持った。 疲れたあなたは、自分を抹殺するために、それから娘を殺した。そうして自分に刃を向けたけれど、そこであなたは自分の顔に還る。あなたは、……死ねない。あなたは愛された事が無かったけれど、確かにあなたは自分の幼少時代を過ごした人間だった。 そしてあなたは刑場に立つ……あなたの皮膚が、母親譲りの白い肌が醜い樹人の肌に化す……あなたの息子がかつて眠っていた母胎は既に取り除かれている……。
あなたの中の記憶の戒めは解かれる……多分それは苦しいと思う。でも、あなたが自傷をしている時期はもう終わったはず……あなたの家族はもうとうに滅び去ってしまったのだから。全ては時が許してくれる……家族という物が呪縛となっても。きっと、あなたは許される。 ――許されない。……許されない。私は、許されない。自分を殺し、愛してくれた者を殺し、愛すべき者を殺した私は、許されない。 ……許されない罪があるなら、罪なんてそもそも有り得ない……あなたは確かに未完成の自殺をした……あなたの両親を除く全てのあなたを殺す事で。あなたは殺され切ってないの、半端なのよ。……そう。あなたの心臓が動き続けている限り、あなたは家族、血族という呪縛から決して解放はされない。……でも今のあなたは既に歩けるの、もう記憶を知ったのだから……。未確定な自殺から、あなたは確かに蘇生出来る。あなたは。……出来る。 息が、出来る。歩く事が、出来る。その白い手を、白い足を、白い髪を、白い皮膚を、許す事が、出来る。あなたの愛を、許す事が、出来る。 信じて。あなたを。あなたの血を。あなたはあなたでしか有り得ないって、あなたの中に千年以上の時が血を巡って通じているって……。
*
プリミラの蔦の繭が次第にアイリスの樹の肌を包込み、そしてゆっくりと樹が溶解していく。彼女の表情は見えない。 俺は何も出来ず、沈黙する樹人達の狭間で、アイリスが死んでいくのを見ることしか出来ない。プリミラの肌は、まだ見えない。 沈黙の間で、俺は殺されていくアイリスの肌を触る。それでも、その肌は温かい。その肌の色には、白が確かに秘められている。 「アイリス……?」 枝が音を立てて腐食する。同時に腐食しながらも、砂に映える美しい白い手が、プリミラのでは無い誰かの手が、アイリスの肌を裂く。 俺はその誰か解らない手を、自らの手で掴む。弱々しく脈動しているその手が、俺の手を弱いけれど、確かに握る。 俺は引っ張る。彼女の手を。アイリスの、俺の知らないアイリスの手を――。
* * *
――砂のカンヴァスにタイヤの航跡を付けながら、一台のジープが走っていく。 運転席にはやる気の無さそうな顔をした旅人らしき青年が、助手席には男物の革のコートを着た花の娘の少女を乗せて。 少女の褐色の皮膚には、藤色の西洋桜草がきらきらと太陽を浴びて煌めいている。 ……お前さあ。そのコート、いつになったら返すつもりなんだ? ……世界が終わる頃かなあ……。……そういう電波発言を素の顔でやるのは頼むからやめてくれ。……えー。お父さんだし、大丈夫。 ……さっきさー、キミすっごくセンチメンタルな顔してたよー。どしたの? ……思い出しただけだよ。昔の事。お前と会った時の事。 あー、あの時かあ。……今更思うんだけどさあ、私結構痛い子だったよねー、裸同然で歩いててもあんまり人目気にしないとか。 彼女の言葉に荷台に乗った女が返答した。皮膚をクロークの様な薄い布で魅力的に隠蔽した女だった。その肌の白が、光を秘めた風に耀いている。 ……人の青春なんて痛い事ばっかよ。そう。寧ろ青春なんて黒い歴史が無けりゃならんのだッ! 私だって昔は詩を書いた! 好きな男の子に詩を無理やり送り付けて明らかに返答に困っている表情にぞくぞくしたりしたぞッ! ……うん。キミさー、あの時から大分変わったよねー。もう何て言うの? 変態二号みたいな? ……待て。誰が一号だ。 ……人間は変態ぐらいが丁度良いんだ! だがこいつはやっぱり世界の平和の為にも一度殺されるべきだ。うん。私の中の総議会が全会一致可決しているぞ。 ……お前さー、もっとおしとやかな奴じゃなかったっけ? 娘よ、お前はいかなる洗脳を此奴に施したのか? ……うんとねー。電波な言葉連打してただけ。 ……それが原因じゃね? ……原因等有りはしないッ! 有るのは結果のみだッ! ……多分そうだよねー。ま、でもさ。……結構楽しくやってるから、いいんじゃない? ……おいちょっと待て何だその人並みな回答はッ! ここは断じてそんな陳腐な言葉じゃ許されんのだッ! ……もうお前何言ってんの……。 ――渡り鳥が爪を立てた荒野の風を切り裂きながら進んでいく。 ……じゃあさあ……家族みたいだとか、そんなんで――良くないかな、私達? 彼女が言葉を発すと、女は少女に抱きつく。少女は息をしようと腕を振り回し、その度に彼はハンドルを強く握る。女が叫ぶ。 良いこと言うなお前はッ! 流石私の見込んだ女ッ! ……ちょっと待って苦しい死ねる私そっち系の趣味無いんだよねえ止めてよちょっともう。 ……自重しろお前等ッ! ジープから叩き落とすぞッ! ……それさー、結構物理的に無理じゃない? 大体ハンドル握ってるし。……あーもううるさいッ! だからちょっとは黙れッ! 俺の家族なら家長たる俺に従えッ! ……私は母親を所望するぞッ! ……あ、私が娘でも微妙に成立つ。 ――鳥が、走る。ジープが、荒野に走る。 でもそうなると父さんはやっぱり樹フェチの変態さんになるのかー。まー、捕まらない程度にほどほどにねー。 ……な、泣くな我が夫よ! お前は悪くない! 悪いのはお前の性癖だッ! うるさいッ! 俺は何も悪くないんだッ! ――月は朝に目がけて走り、月は夜に目がけて走る。 でもさでもさッ! 私達が寄り添った発端ってさっ、やっぱ父さんが変態で樹に情欲した揚げ句女の子抱きたいって言ったからだよねっ! ……お前ッ! 俺がいつこいつに情欲したなんて言ったっ! ……私はお前の妻だからなッ! ……俺の気苦労も知れよお前等ァッ! ――彼女の肌に咲く藤色のプリムローズが、荒野の風にはためいている。褐色のカンヴァスに切り取られた花弁を、光が彩色していく。 彼と、花の娘の彼女と、元樹人の彼女と。三人が荒野に走り出す。
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